第6回 哲学者 千葉雅也さんとの対話(後編)

 

2013年のデビュー作『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』が「紀伊国屋じんぶん大賞」を受賞、一躍「思想界の超新星」として注目を集めた千葉雅也さん。その後も著作『別のしかたで ツイッター哲学』(2014)、カンタン・メイヤスー『有限性の後で 偶然性の必然性についての試論』の翻訳(共訳)(2015)など、先鋭的な仕事を展開されています。そんな千葉さんがじつはBLについての造詣も深い方だと知り、「対話編」のいわば「理論編」として「前編」に引き続きご登場をお願いしました。

第5回ゲスト:千葉雅也さん
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インタビュアー:溝口彰子
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©Katsuhiro Ichikawa

▶︎千葉雅也さんとの対話編 前編はこちら

人間の欲望はおおざっぱにものごとをカテゴライズするという暴力性・差別性から切り離せないんです

溝口:ご著書『別のしかたで ツイッター哲学』の表紙は、マンガ家・永井三郎さんが千葉さんを描いたイラストですよね。

千葉:あのキャラは単純に僕がモデルというわけではないですけどね(笑)。ともかく、僕のわがままで描いてもらいました。

溝口:永井さんの『スメルズライクグリーンスピリット』(ふゅーじょんぷろだくと、2012,2013)は『BL進化論』でも重要な「進化形BL」として考察しました。

千葉:そうでしたね。あの作品は、読みながら泣いてしまって。母親との関係はキモですから。ある意味ずるい、んだけど、深刻な問題をちゃんと描いていると思います。

溝口:トラスジェンダーもしくは「オネエ」っぽいゲイだと思われるスポーツイケメンの桐野が、「母さんが笑っていないと私がダメなの」「私が私のために選んだの」といって、異性と結婚する人生を選ぶところは本当に説得力がありました。

千葉:あれは切ない。そういう形で母親の影から逃れられないというのがキツい。もっとも、彼自身の欲望がどうなのか、実家の事情がどこまで彼にとって支配的なのか、識別不可能なのですが。あと、「東京に行けばどうにかなるかもしれない」というあたりも、地方出身者としてはリアルに感じるところがありましたね。

溝口:永井さんとは親交があるのですか?

千葉:いえ、初めてお仕事を依頼して、編集者ごしの連絡だけで。お会いしてはいません。勢いでお願いしました。

溝口:『スメルズ〜』は、実は発表媒体はBL雑誌ではないので厳密にはBLとはいえない、とあとで知ってびびったんです。『このBLがやばい!』2014年版の7位にランクインしていたので、てっきりBLだと思っていて。でも、結果的には、『このBL〜』の編集部が、ランキングに掲載していいかどうか確認して、OKが出たから掲載したのだと知って、ほっとしましたが。

千葉:つまりBLとしてカテゴライズされていいかどうかが問題になる場面があるということですか。なるほど。

溝口:話は変わりますが、『BL進化論』では、男性同性愛者について幻想、ファンタジーを抱くのはBL愛好家女性だけではなく、ゲイ当事者もだし、そのファンタジーに息を吹き込んだ表象は現実の模範になりうることを示すために「補遺」で「映画における男性同性愛」を論じました。ゲイ作家によるゲイマンガについては触れなかったので、少しお話したいのですが、例えば最近、一般誌での『弟の夫』(双葉社、2015-)が非常に高く評価されている田亀源五郎さんが『バディ』で連載されていた『銀(しろがね)の華』(ジープロジェクト、2001-2002)、ドマッチョな男女郎(おとこじょろう)がかもいから縄で吊るされて「トコロテン」でイく……とか、ものすごいファンタジーですよね。田亀さんご本人も繰り返しいっておられますが。また、ポルノグラフィックな方向性ではなくても、同時期に連載されていた、タイトルは忘れてしまったんですけどもベア系ゲイ・カップルのほのぼの生活マンガもファンタジックだと思ったし。なにがいいたいかというと、BLは妄想だ妄想だっていわれるけど、ゲイマンガだって妄想じゃないか、と。

千葉:第一、「本当のゲイのセックス」なんて誰が知っているんだ、っていうね。そもそも性愛はファンタジーなので、誇張されたファンタジーである表象をとおして、実際のファンタジーを構築していくわけですから、それ以上でも以下でもない。だからそれが女性著者が構築したものだからっていって、だからなんだ、っていう話だと思います。

溝口:でも長年、そこのところを批判されてきたんですよね。

千葉:なぜでしょうね……単純にいって「女にいろいろいわれたくない」ってそれだけかもしれないですね。

溝口:(笑)男尊女卑なんですね。女ごときがいうな、っていう。

千葉:男尊女卑というか、男性同性愛の圏外からいわれたくない、と。それだけだと思うな。

溝口:92年に「やおい論争」を仕掛けた佐藤雅樹さんについては、やおいなんて死んでしまえ、と攻撃しているようでいて、その実、女性との共闘を模索していたと解釈するほうが適切だといったあたりは『BL進化論』3章でも論じましたが、そういう複雑なことではなくて真っ向から批判したのはアメリカ人日本文学研究者のキース・ヴィンセントでした。3章でとりあげた小谷真理氏との対談以外にも、彼は「なぜ、そんなに男性同性愛を描いたり読んだりするのが好きなのなら、そのBL愛好家女性たちは実際のゲイの解放運動に協力しないのか」という意味のことを何度か述べていた。で、偶然、現役のBL作家さんと飲み屋で出会って不毛なやりとりをした、というのを作家さんのほうが雑誌掲載のエッセイで綴っていたりもします。「どうしてそんなものを書くのか」と質問されて、「そんなこと、簡単に説明できるくらいだったら創作なんかしない」と、答えても引き下がらなくて閉口した、といったようなことを。

千葉:何か曖昧な表現活動だけしてるのはダメで、現実にコミットしろ、というのはどの業界にもいますからね。BLに関しても歴史は繰り返したということでしょう。

溝口:今から考えれば、キースは専門が文学なのに、男性同性愛キャラが出てくるマンガや小説を創作するんじゃなくて実際のアクティヴィズムを手伝え、っていっていたのは妙な感じもするんですけど、まあ、ゲイ・アクティヴィズムに目覚めて日が浅く、アクティヴィズム団体であるアカーに所属していたっていうことで、なんとなく気持ちはわかるんですけど。

千葉:そうですね、アカーの当時のとにかくがんばらなくてはならないという切迫感からすればしかたなかったのかもしれない。でも、やおい・BL作品がこれだけ氾濫することによって男性同性愛が解放された部分はあると思いますよ。革命的だったと思うんです。幻想がそれだけでポリティカルなことだったわけです。腐女子がゲイ・コミュニティと特段、関係なく、勝手に楽しいことをやっているというだけで十分に革命的なんです。僕はそう思ってます。デモをしなくちゃいけないというのではない道筋があるのです。欲望は幻想で動く。その本質的なところに関わる革命性ですよ。

溝口:私自身、ロチェスター大学大学院ビジュアル&カルチュラル・スタディーズ・プログラムに留学する前の数年間は、現代アートや映画の批評めいたことを始めてはいたんですが、「レズビアンの視点から分析するんだ」みたいな、本質主義にとらわれてしまっていたところがありました。そこから自由になれたのは、留学先で、カミングアウトしたレズビアンであることが珍しくもなんともない、それが看板になりえない環境になったことと、理論面ではクィア理論のなかでも過激に欲望のことを論じたレオ・ベルサーニや——それで2章の90年代BLテキストの定型分析の冒頭で「直腸は墓場か?」を引用したのですが——フロイトの精神分析理論をフェミニストとして生産的に活用すべきだというテレサ・デ・ラウレティスの仕事に助けられました。「補遺 理論編」でも述べましたが。

千葉:BLについてもそうだし、そもそも同性愛とはどのような欲望なのかを考えるには精神分析は必須ですよね。最近のリベラル系研究ではそういうことはあまり問わないようですが。

溝口:ああ、「同性愛の原因を問うのはよくない」っていうやつですね。

千葉:まあ、欲望はいろいろあってそれぞれに人権問題だ、という。だから欲望の根源は問わないことにしよう、と。一種のパンドラの箱を開けることになるから、かなあ。もちろん人権問題としての切り口も大切ですが……。でも、公共領域にどうかかわるかという問題と、欲望の問題は分けて考える必要があると思います。ベルサーニはそこを見ていたと思う。欲望の根源には暴力性や差別性がある。それを直視しないと。だって、そもそも、異性だけを好きであるという異性愛は、同性じゃダメで異性がいいんだという差別です。女が女を愛するレズビアンも、男じゃなくて女が好きなんだというのは差別以外の何物でもない。セクシュアリティの編成においては、類型的なものがすごく重要です。性別だけではなくて、フェチシズムによるものとかいろいろなカテゴリーがある。人間の欲望はおおざっぱにものごとをカテゴライズするという暴力性・差別性から切り離せないんです。究極的には人間ひとりひとりの特異性に向き合うことが倫理的であって、「なになに系」「なになに族」といった見方で見るべきじゃない、という考え方があるけれど、僕はそれでは欲望を捉えられないと思う。

溝口:そうですね。女性の賃金が上がるべきといった意味での男女平等はもちろんすすめなくちゃならないけど、本当の意味でジェンダー格差が解消されたらレズビアンっていうカテゴリーも消滅しちゃうよね、っていうことは、レズビアンの友人たちともずいぶん前からいっています。それに、BLを求める欲望もなくなるかもしれませんよね。……そういうことを認識するのって重要だと思うので、私は「X」だなんだっていうのは嫌いなんです。「自分はなに者でもない」「なに系でもない」っていいたいんだろうけど、中2までにしといてよ、と思う(笑)。

千葉:そこはね、あまりいうと反発があるでしょうけど、いわゆる「X」の傾向では、固定的なカテゴライズをとにかく拒否したいというのがあるんじゃないのかな。それは欲望の暴力性・差別性を暫定的に引き受けることをどうしてもしたくないということのように感じられる。たとえ性的に流動的だったり不確定だったりしても、何らかの(いくつかの)欲望の要点、こだわってしまうポイントがあると思うんですね。典型的なジェンダー二元性や対象選択からは外れている場合でも。

溝口:そっか、とにかく引き受けたくない、っていうのを私は「ずるい」と思ってしまうのかも。とくに、「X」方面の人って、レズビアンやゲイに向かって、「自分たちに常に配慮しろ、排除して語るな」という傾向があるので。一般的なマジョリティである異性愛者に注意を喚起するのではなく。話は変わりますが、最近は筋トレにこっていらっしゃるとか?

千葉:ええ。年をとってくると代謝が落ちるから、筋肉をつけるしかないですからね。それが唯一の趣味のつもりなんです。他のカルチャー系のことは全部、仕事に関係しちゃうから。休まらないんです。ジムに行っている時は解放されるんですよ。いや、でも最近は筋肉のうんちくをいろいろ考え始めちゃったし、それでエッセイも書けるから、結局は仕事に回収されそうなんですけどね(笑)。

溝口:わかります(笑)。私も、ここ数年の仕事と関係ない純粋な趣味はバレーボール観戦なんですけど、男女とも観るファンって珍しいことを知り、ジェンダーの視点で分析的に考えちゃったりします。エッセイの依頼が来たら書いちゃうかも、いやでも……という状態です(笑)。それと、私もジムで運動はするのですが、完全に美容と健康のため程度なんですけど、とくに精神の健康にとって重要です。ずーっと座って書いたり読んだりしていると、気が滅入ってくるんですよね。論文が進まないーとか。その時に運動すると、エンドルフィンでしたっけ、脳内化学物質が分泌されるから、気分がぱーっと晴れやかになる。問題は全然解決していないのに(笑)。

千葉:いや、それこそ本当の解決なんじゃないですか。万事、結局は気の持ちようだから。気の持ちようだけでは社会革命は起こせないでしょうけど。

溝口:デ・ラウレティスが、社会的政治的な主体性(subjecthood)と精神分析的な主観性(subjectivity)をいったん分けて考えることを提案しているんです。後者の主観性にとっては、エンドルフィンの作用だろうがなんだろうが、たしかに解決は解決ですよね(笑)。

次回の対話編ゲストは、小説家の岩本薫さんを迎えてお送りします!

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▶︎第5回 哲学者 千葉雅也さんとの対話(前編)


■参考作品
別のしかたで ツイッター哲学』(河出書房新社
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