第7回 自分はゲイなのかいま一度考えてみる

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|ノンケなのに男性とセックスをする男たち
1940年代から同性愛者たちに支持され続けてきたキンゼイスケールを否定する論文が発表されたのは、昨年11月のことでした。どうも、大島薫です。

米国の性科学者アルフレッド・キンゼイ博士が提唱した人間の性的経験の評定尺度を表すキンゼイスケールですが、それによると純粋なノンケというのは人口の50%しかいないとされていて、ホモフォビアの軽減や、セクシャルマイノリティーの人々のアイデンティティ形成に大きな影響を与えてきました。キンゼイ博士はいいます。

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世界は羊か山羊かに分けられるようなものではないのだ……生物界はそれぞれの、そしてすべての要素において、連続体なのである。
The world is not to be divided into sheep and goats…The living world is a continuum in each and every one of its aspect

ですが、今回発表されたキンゼイスケールを否定するワシントン州立大のアリッサ・ノリス氏らの研究では、「むしろ人間は羊か山羊に分けるほうが適している」という見解を見せました。

真実の行方はわかりませんが、様々な分野から我々のセクシャリティーの謎が解明されていくことはより自分たちのことを知ることに繋がります。そこでここではもう一度ゲイって何なのか? 自分は本当にゲイなのか? ということについて考えてみましょう。

|ボクの話
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ボクはよく「ゲイとは~」とか、「ゲイの中では~」といったことをSNSやコラムに書いていますが、さて、果たしてボクはゲイなのでしょうか?(正確にいうとパンセクシャル(全性愛)なのですが、ここでは『男性が好きな男性』という意味でゲイという言葉について書かせていただきます)

第1回でも書かせていただいた内容ですが、ボクの場合普通のゲイの方と違う点は、女装をしているという点です。

通常例えばMtFの方に対してゲイという形容詞は当てはまらないとされています。性別違和などを抱えている方などは特にですが、それは女性として扱うのが適切だという意見からです。女性が男性を好きなのであればそれは異性愛であって、同性愛ではないのだからゲイではないという理論なわけですね。

ですが、僕は性別違和ではありません。自分のことを男性だとわかった上で女性の服を着て、男性と恋愛やセックスをしているわけです(女性ともしますが……)。

自分のことを男性だとわかった上で女性の真似事をして男性と関係を持つ。これはゲイでしょうか?

|M過ぎて男性とセックスしてしまう男性
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©neco/乙女チック

マゾヒズムの傾向が強すぎて男性と性行為をしてしまう男性というのが存在します。そういう男性の中では、例えばSの女性に組み敷かれるのは本気を出せばそれを撥ね退けられてしまうという意識が心の中に残ってしまって、本当の意味で虐げられている気がしないと考えてしまうようです。

加えて心理学的にいうところの屈辱動機においては、力に関して同格の男性に負けるというほうが、より男性として劣っていると思えて、興奮できるのではないでしょうか。

しかし、被虐性欲による同性との性行為について考える場合は、男性と性交することを本来は屈辱的なことだと本人が認識している必要があるということを理解しなければなりません。だって、それが本人の価値観として当たり前のことだとしたら、何の屈辱もないはずなのですから。ですが、男性とセックスをしているということもまた事実です。果たしてこれもゲイと呼んでしまっていいものでしょうか。

|S過ぎて男性とセックスしてしまう男性
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©十わだこ/ボーイズファン

こちらは実際にボクの知人男性にいるのですが、サディストの傾向が行き過ぎて男性とセックスをする男性もいます。

その男性曰く、「女性を虐げたところで、それは本当の意味で相手を屈服させたことにはならない。女性というのは常に女性という虐げられる立場に慣れ過ぎていて、絶対的な暴力や権力に対して敗北を感じない。男がこの男には敵わないと感じたときこそが、本当の意味での敗北であって真の主従関係が形成される瞬間なんだ」という自論なのだそうです。

これもまたM男性の場合と同じく、男性という性に対する過剰な優位主義から来る衝動です。一種のホモソーシャルといえなくもありません。

例えば、仕事などで上司が部下を注意するときなどに、その言葉が限度を過ぎてしまうことがありますが、他人を責め立てる行為は人間をある種のトリップ状態に導くことが知られています。加虐性に火が付いて、自分を制御できなくなるんですね。

このとき、上司と部下に直接的に性的な行為はありませんが、その関係性はまさにSMにおけるサディストとマゾヒストの関係に酷似しています。上司は部下を優位な立場から責め立て、部下は無条件にそれを受け入れる。それが仕事から逸脱した相手のパーソナルな部分や、プライベートにまで踏み込んだものなら尚更でしょう。上司と部下が男性同士であっても、それはある種のプレイと受け取れます。

このように、セックスやプレイを一概に性行為に区切らなければ、一般の男性にとっても同性愛行為はごく身近に存在しているのです。

|トラニチェイサーの男性
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©十わだこ/ボーイズファン

トラニーチェイサーといえば、言葉通りトラニー(トランスする人)をチェイス(追いかける)するという意味で、MtF、女装男子、おなべ、男装女子、Xジェンダーなど性別に捉われない生き方をする人たちを好む人々のことです。

ニューハーフ好き、女装男子好きの男性もこれに含まれますね。さて、多くのトラニーチェイサーの男性はこのような自論を持っている人が多くいます。

「俺は女の格好をした男が好きなだけであって、男の見た目の奴には興味がない。だから、女に見えるという前提が必要な時点で、俺はノンケなんだ」

なるほど。それはたしかにそうともいえるかもしれません。しかし、そういった性別越境者たちにまったく興味のない一般の男性からすると、その意見はまったく真逆となります。

「だって女に見えるって言っても、要は男なんだろ? じゃあ、結局ホモじゃん」

そういう趣向を全然持ち合わせていない男性からすると、そう思ってしまうのもこれまた間違っていないようにも思えます。

冒頭から性別違和を抱えている男性は、自分を女性だと思っているからゲイではなくノンケであるというお話をしましたが、今回の場合はそういった人々を好む人たちの話だというところがポイントです。

個人的にはこれを相手のことを(元)男性と踏まえて興奮しているのかというところが大切になってくるのではないかと考えています。

ボクなんかはニューハーフさんや、女装男子はおちんちんが生えているところが好きなので、これは相手を元男性や、女装をした男性と踏まえて見ているということになります。

ですが、例えばたまたま好きになった女性が実は男性だったけど付き合っているという男性がいた場合はこの限りではありません。きっとその男性はその人がおちんちんを取ってしまったとしても、愛してあげられることでしょうから。

しかし、トラニーチェイサーの男性の多くが、ガチガチのゲイとはそういう行為ができないと断言しているのも事実です。本当の意味での男性とは一体何なのか。一体ボクらは何をもって男性を男性と認識しているのかということにはもう少し議論の余地があるでしょう。

|ショタ好きの男性
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写真出典:LGBTカトリックジャパン

最近インターネットなどでは男の娘やショタのエロ漫画でヌいているという男性も増えました。少し前までなら少年趣味のゲイ男性か腐女子向けと思われていたジャンルでしたが、一般のマンガ誌などで男の娘キャラがいくつも扱われるようになり、多少開けたジャンルになってきた気がします。

こちらも女装男子やニューハーフ好きの男性らと同じく、「ショタではヌけるけど、まるっきり男には興味がない」と主張する人々が大変多く存在します。こういった場合はどう判断すれば良いのでしょうか。

少年愛というのは戦国時代の日本や、古代ローマなどの男性たちには多く見られた傾向です。東洋西洋に限らず、少年愛の原則としてそれは『少年と呼ばれる年頃の男性』のみを対象として行われてきました。少年愛なのだから当たり前のように思われますが、大人の男性間で行われていないということは、厳密にいえば同性愛文化ではないということですね。

人間というのは母胎の中で、まず女性として形作られます。その後男性ホルモンなどの影響により、男の子として生まれる場合は胎児の身体が変化していくのです。当然性器に関しても、大陰唇は陰嚢に、小陰唇は陰茎へと移り変わっていきますが、生まれたばかりの赤ちゃんはまだ男児としては不完全です。

そのため、幼い男の子の身体にはまだ子宮があります。男性子宮という名称で、これは成長と共に徐々に失われていきます。我々男性は生まれてすぐ男性になるわけではなく、子どもから大人に変わっていく中でゆっくりとオトコになっていくわけです。幼い女の子と男の子を比べてみても、胸が同じように平らであったり、顔が双方ともに中性的だったりしますよね。幼い少年少女たちはそういう意味では、まだ男女の区別が曖昧な中性な存在なのです。

もし仮にこれを元に考えるのであれば、ショタに欲情する男性というのは少年を本能的にまだ男になりきれていない存在として認識しているのかもしれません。

これを裏付ける1つの事例として、メラネシアの島々に住む部族の間で行われていた通過儀礼(イニシエーション)が挙げられます。この部族の少年たちは9歳か10歳ぐらいの年齢に達すると、母親や姉妹から切り離され、一人前の男になる儀式を受けるため女人禁制の「男の家」と呼ばれる小屋で、大人の男たちと集団生活を送ります。

少年たちはこの期間中外出を禁止され、夜な夜な大人の男から口や肛門を問わずセックスを行い、精液を注がれ続けなければなりません。この部族の中では大人の男の精液を少年に伝えることによって、少年が立派な大人の男性になれると信じられているのです。彼らの部族に母胎内の胎児が云々といった話が一般教養として身に付いているとは考えにくいので、これはつまり本能で少年を男になりきれていない存在として捉えているのではないでしょうか。

日本やその他少年愛文化が根付いていた諸外国を見ても、少年愛にはしばしば教育的な側面を持って行われてきた歴史があります。少年は尊敬できる大人の男性に付き、知識や教養を学ぶ一環としてセックスを教え込まれます。これもまた少年が完全なる男性へと成長する上での一種のイニシエーションだったといえます。

|アナル好き過ぎて男性とセックスする男性
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写真出典:アダルトショップ WILD ONE

一昔前からアダルトショップには、アナル開発グッズ関連の商品が非常に増えてきました。アナルオナニーに関する教則本なども多数出版され、もはやノンケの男性がアナルを弄るというのは珍しくない行為になっていると言っても過言ではありません。

そんな流れからか、2ちゃんねる等に衝撃的なスレッドを見かけました。「ノンケだけど男に掘られてる奴ちょっとこい」というような名前を付けて立てられたそのスレは、アナルオナニーにハマり過ぎてとうとう男性との性交まで経験してしまった人々が集うのだというのです。レスを見ると様々な体験談が寄せられていますが、これにも独特な傾向が見られました。

「あくまでアナルオナニーの延長だから、相手の男とは絶対にキスをしない」、「この前いつも会ってる奴に『付き合って』といわれたけど、ホモじゃないから断った」など非常にドライな関係が見受けられます。

以前ニューハーフヘルスで働くMtFさんからこんな話を聞きました。「お客さんはウケが多いんだよね。自分でアナル弄ってて最初はM性感とかに行って女の子にペニバンで掘られてたんだけど、やっぱり本物が欲しくなってアタシたちのところに来るみたい。でも、結局そういう男ってもっとガチガチの男に掘られたくなって、最終的にウリ専とか言っちゃうんだよねー」。

愛情のない快楽のためだけのセックス――しかし、その相手は男性という、この関係は果たしてゲイと呼んでいいものなのでしょうか。

|いま一度自分がゲイなのか考えてみる
知人のゲイ数人と飲んでいるとき、その中の1人の男性が彼氏を連れてきたことがあります。その場に現れた彼氏は、一瞬女の子と見紛うほどの美少年でした。普通なら大絶賛されるほどの容姿でしたが、彼らが退席した後周りのゲイからは彼らを非難する言葉が聞こえ始めたのです。

「ああいうタイプと付き合うんなら、いっそのこと女と付き合えばいいのに」。周りにいるゲイがヒゲや短髪といった典型的なゲイが好きなタイプだったこともあるでしょうが、男性として男性を愛する彼らには、そのカップルに対して懐疑的な様子でした。

しかし、一方美少年好きのその男性のほうは違った意見だったようです。「俺は女じゃダメなんだよ。どれだけ綺麗でもそいつが男だから興奮するんだ」。なるほど。男の娘好きのボクにも伝わる理論です。

我々は様々な要因で性的な興奮を覚えます。視覚的にエロく見えるだとか、常識的にやってはいけないことをやっているという背徳感だとか。これはつまり社会的なものに起因しているということです。

例えば男とヤっているという背徳感に興奮を感じる男性は、この社会が男性同士でセックスをするのが当たり前の世の中だったとしたら同じような興奮は味わえませんし、普段見ることのできない女性の下着姿に興奮を覚えるというノンケ男性は、皆が皆下着で生活するのが当たり前の世界ならやはりそれに何の価値も感じなくなることでしょう。

|愛がなくてもセックスはできることを認める
性的なことと、愛情は密接に結びついているように見えて、そうでもないことを我々男性は知っています。大人になって幾ばくかの年月を経ている男性なら、性欲のみ先行して愛情を伴わないセックスをしてしまった経験が1度や2度はあるはずです。

それは決して褒められたことではないかもしれません。ですが、そういう事実を認めて、いま一度自分の性について考えてみるのも良いのではないでしょうか。

本当に自分はノンケなのか。本当にゲイなのか。心から誰かを愛しているのだろうか。我々は他人以上に自分のことを愛しています。愛おしい人を見つめるその視線の向こうには、実は自分の姿が潜んでいるのかもしれませんね。

 2016/07/21 11:45    Comment  コラム              
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