ボーダーライン 第4話

恋はふたりだけの世界。
そこは文字通り、ふたりだけのパラダイス。
密室感を愉しめない関係なんて恋じゃない。
Feels like
You’re mine
I’m yours
so fine
Like paradise
by Sade “Paradise”

助手席に乗り込むとバニラウッドの匂いがした。バックミラーにひっかかったサーフボードのキーホルダー。
「マユさん、サーフィンするんだ?」
「うふふ、そう。好きなのよ。」運転している彼女の横顔を盗み見る。
「香ちゃんは?海は好き?」左側の横顔。永遠に見ていたい。しゅっと尖ったあごのライン。
「海は大好き。昔、ちょっとだけボディーボードやってたけど、今は全然。」
「香ちゃん海が似合うからもったいないなあ。サーフィンやってみたら?あ、そうだ、毎年ハワイに行ってるんだけど、今度一緒に行こうよ。ハワイでサーフィンデビュー、良くない?」
「最高!行きたい!」クルマは第三京浜を抜けて横横道路を走っていた。

窓の外に緑が広がる。東京の喧騒から遠ざかっていく。行く先はきっとパラダイス。

思わず少し窓を開けると、清々しい森のにおいが車内に入り込んできた。
カーステレオから流れるアニー・レノックスの歌声が高まるテンションを加速させる。
“There Must Be An Angel”目の前にある全てがキラキラし過ぎて、息が出来なくなりそうだ。

朝比奈インターで高速を降り、山間いの道を抜けた先に鎌倉八幡宮。由比ヶ浜まであと少し。
自動的に昔愛した男を思い出す。
少しばかりの感傷は今やスパイスとなって、アタシはより敏感に彼女の存在を感じる事が出来る。
「ねえ、どこに向かってるの?」
「葉山よ、そこに隠れ家があるんだ。」茶目っけたっぷりに笑う彼女。ドキドキして思わず目の前に開けた光景に叫んだ。
「海だーっ!」
「あはは、香ちゃん、お腹は空いてる?」嬉しそうに笑う彼女の声。
「うん。今ならテーブルごと食べられそうな位!」
「よし、じゃあ寄り道しよう。」

海沿いを走り、この動く密室はふたりを目的地へ連れて行く。
細く入り組んだ小道を抜け、クルマは古い日本家屋風の一軒家の前に停まった。
大きな木が玄関を覆い隠さんばかりにもっさり茂っている。
「なんか、秘密基地みたい。」
「うふふ、中はもっとすごいんだよ。」
「たのしみ!」荷物を降ろし、彼女の後をついて行く。

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玄関を開けるとそこには外観からは想像もつかないようなスペースが広がっていた。
アンティーク家具で統一されたリビング。品よく茶色ベースでまとめられていて、そのひとつひとつが良いものだと解る。
でも不思議と緊張し過ぎない雰囲気。まるでマユさんのように。

「おいで、靴は脱がなくて良いよ。」

彼女はアタシの画材バッグを革張りのソファに置くと、手早く家中の窓を開けて行く。
なるほど、玄関はフラットに改造されているのか、靴のまま中に入っても良さそうだ。
ひとまず近くにあったダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。
何気なく見た飾り棚の中。
彼女とレイ子さんと思われる人が一緒に映っている写真が飾られていた。
胸がざわめく。解っていたはずなのに、滑稽なほど動揺している。
来るんじゃなかった…、そうこうしているうちに彼女が戻ってきた。

「お待たせ。さあ、砂浜を歩いて美味しいごはんを食べに行こう。これを履くと良いよ。」
「あ、うん!」ビーチサンダルを借りた。
何も見なかった、と自分に言い聞かせた。持ってきた肖像画は持って帰ろうと決めた。

砂浜の上に建つオープンテラス。アタシ達は海に向かって並んで座った。
夏前の乾いた風。モヒートを飲みながらのおしゃべり。
どの料理もすごく美味しく、一緒に盛り上がる。でも心のどこかは、ざわついたまま。
不意に会話に間が空いた。

「良いところだね、ここ。」アタシはタバコに火を付けた。
「うん。お気に入りのお店なんだ。香ちゃんを連れて来たかった。」
アタシがひと吸いしたタバコを彼女はするっと取り上げて、吸いこんだ。
レイ子さんとよく来るんだ?そう言いそうになって、言葉ごと飲み込んだ。

「ねえ知ってる?人の顔の右側は社会的な顔、左側はプライベートな顔なんだって。」
「そうなんだ、知らなかった。」彼女はアタシの右側に座っている。
「うん、だから今私は香ちゃんにプライベートな顔を見せてる。香ちゃんの左側が見たい。」
「え…?」顔を右に向けたその瞬間、彼女の唇がアタシのそれに重なった。
息をするのも忘れたままアタシは何度も瞬きをした。
カラっと強かったはずの日差しが、いつのまにか波間に傾いていた。
サーモンピンクのサンセット。

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Sadeの歌声が、古びたスピーカーから聴こえる。
“Paradise”それは憎らしいほどのタイミングだった。
アタシは彼女の背中に腕を回した。この一瞬を離したくない。

ほどなくして何かが唇を伝って舌まで降りてきた。しょっぱいその滴は喉の奥までたどり着く。

「マユさん、泣いてるの?」唇を離し抱き合ったまま彼女の頭を撫でた。
アタシのより少し大きくて骨ばった肩幅。彼女は何かに疲れきっているんだと思った。

「彼女と実はもう随分前からダメになってるんだ。一緒に暮らしてるのが耐えられない。だから本当にあの家は私の隠れ家なんだ。こんなことを話してごめんね。ただ今日は…香ちゃんと来れてうれしい。」

「うん。…マユさん、好きだよ。」アタシからキスをした。

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