ゲイと無情、そしてこれからのわたし達

適当に生きる人生も、毎日神経をすり減らして頑張る毎日も、どうせ死ぬんなら同じ。正直こんな意見は耳にしたくない。惰性に流されるまま生きる毎日は、きっと私達の生のエネルギーをムシャムシャと音を立てて食べてしまう。

 

いつ来るかわからない死を意識して生きることは、大切なこと。そこには性差とか肌の色の違いなんか関係ない! 毎日を大切に消化する為にも、死を忘れてはならぬという訳だ。中性ヨーロッパでは、いわゆる“Memento Mori”という格言が大変な流行を見せた。空虚の象徴である骸骨が舞い踊り、真っ暗な空間に一輪の花と息絶えた小鳥の静物画……ルネサンス絵画で見られる“Memento Mori”が表すは“死を思え”だ。

 

解釈は時代や人々が持つ価値観でも異なるが、俗に“いつか死ぬんだから、今を楽しめ”というよりも、現代では“死ぬために生きる”ことにより大きな意味合いを持つのだと思う。私の住むスペインではどちらかというと、朝っぱらから人生を謳歌する方法探しをしている人々が多い気がするが……勿論今を楽しむことも大切だが。

 

しかし、私達の背中を押す一番のモチベーションこそが、この”Memento Mori“にあると思うのだ。”死ぬために生きる“私達だからこそ、今という一瞬を死に向かって全力で駆け抜ける、それが人生の本質。

 

しかし人はなかなか頑張れない。高すぎる意識に、止まることなく流れる時間に躓いてしまう。そこで突きつけられる現実の中で特に恐ろしいのが、コツコツと聞こえてくる老後の足音。

 

いつものごとくスペインという国になかなか希望を見いだせない私だが、圧倒的に心配の種になる事象。それは仕事でもお金でもなく(勿論かなり心配の種ではあるが)、老後の自分達の姿。街を歩けば年配のゲイカップルが仲良く手を繋ぐ光景も珍しくないスペインだが、彼らが実際老後を安心して暮らせているかというと、やはり疑問だ。

 

日本と同様スペインでも年金は雀の涙程……旦那の大叔母は97歳にして、毎月400ユーロ強の年金収入のみ。幸いにスペインの医療制度はそこそこ整備されており、手術も入院も無料なのは不幸中の幸いだが。しかしだ、今のスペインを生きる外国籍の人間が例えスペイン人配偶者を持ったところで、老後への心配は何も軽減されない。

 

例えばもし私が突然アルツハイマーを発症し、全てを忘れたらどうなるのだろうか?愛する旦那、かけがえのない出会いに思い出、親友のこと、全てが忘却の彼方に置いてきぼりになったら。そしてスペイン語も忘れ去り、イベリア半島片隅の養老院かなんかで、日本語だけをブツブツ呟き、スペイン人スタッフに当たり散らしたらどうしよう。

 

そして覚醒したかのように、卑猥極まりない言葉を叫びだしたらもうオワリ。若かりし頃にハメを外したあんなこと、こんなこと。ハッテン場で味わった甘い快楽とか。無意識の中で葬り去った薄暗く、小っ恥ずかしい出来事が蘇り言葉になる程、恐ろしいものはない。

 

やっと見つけた小さな絆、小さな家族。大切な物に囲まれているからこそ、いつか訪れる(かもしれない)、そんな最悪な老後をリアル妄想してしまうのだ。逆に安定感抜群の幸せな老後については、想像力が沸かない点は何とも情けないが。

 

今ある幸せ。お金。そして仕事に家族。当たり前に思う幸せこそ、いつまでも続くと思うな。人生は無情なり、そう例えるなら煌くシャボン玉のようなもの。フワフワと宙を浮かんでは、突拍子もなく消えてしまう。それが人生でもある。

 

二人三脚旦那と私が歩む道は、しばし茨の道。だけど周りを見渡せば向日葵にオレンジの木々が覆いしげるアラゴンの大自然。いつまでも変わらない陽気な喧騒の中、しわくちゃな小さなアジア人の老人と、鼻の高い髭面のダンディーじいさんが手を繋いで街を歩く。そんな老後の光景はあまり想像し難いけれど、いつか実現すればいいな。そんな思いを偲ばせながら、今日はもう眠ろう。

 

色んな思いと呟きを文章として表現してきたけれど、思い返してみればこのコラムというココロの叫びを通じて私自身も成長出来た気がする。どうにもならない不安に、抱え込んでいた葛藤、そんな負の要素ですらも言霊となり、そして遠く離れた日本の誰かに届く喜び。まさにペンは剣より強しだ。そして自分なりの理論武装を身に付けたゲイは何よりも強く、そして楽しく人生を楽しめるはず。きっと、そう。うん、絶対そうだ。

 

P.S

Yさんの優しさと人柄には感謝しきれません。この場を借りてMuchas Gracias!

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