ボーダーライン 第10話

どんなに手を伸ばしても地上から少し浮いたあなたの右手はあの人に向かって伸びている。
少し下から彼女が伸ばすその右手はまた同じようにアタシには届かない。
アタシの手はあなたにしか向いていないのだ。
天に昇るような格好なのに、誰も救われないね。
同時にお互いを見合い、恋に落ちられない限り。
ひとり想い。

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「おかえり!近くに来たからさー。」とナミは言った。
地獄にナミ…か。どうやら神様はアタシを休ませたくないらしい。
「とりあえず上がってよ。」玄関を開けると、長い旅から帰ったような気分になる。
そんな感傷に浸る暇もなく、窓を開け床に散乱した衣類や画材を拾う。
「おじゃましまーす。」
荷物をどけた床にクッションを敷いて、ふたりで缶ビールを飲み始めた。

「そういえば今日どこ行ってたの?携帯切ってたでしょ??」
「ちょっとね。」干渉されたくなくて誤魔化す。
ナミには一番話したくない。その理由は…。

「マユさんと寝たの?」
「…え?」見るとナミは真顔だった。

「まあ、ね。」観念して否定しなかった。
「マジ…?ふうん、よかった?」イラつくナミ。空気が重く尖りだす。

「あ、冷蔵庫に生ハムがあったんだ、食べるー?」
立ち上がりながら誰も居ないキッチンに向かって言う。
愉しくないガールズトークになりそうだな、生ハムを用意しながら思った。

ため息を飲みこむ。

「それよりナミ、何か用があったんでしょ?どうしたの?」
「たまには顔も見たいと思ってさ。最近、香に避けられてるみたいだったし。」
ほらきた。この子って、どこまで自分が好きなんだ?
内心毒づいてしまうほどアタシには余裕がなかった、というのは言い訳か。
「そんなことないけど?締め切りがあったから忙しかっただけ。」
「そうなんだ?でも、信じらんない。ノンケの香が女と寝るなんて。」
後半の部分つっけんどんに言うナミにだんだん腹が立ってきた。
私の何が解るのよ。人の家に押しかけて来て。何がしたいんだろう。
「ナミ酔っぱらったの?」と言うと、「酔ってないよ!」とキレられる。
お手上げだった。

暫く無言でビールを飲む。

「香、覚えてる?アタシが3年前に告白したの。」窓に向かってタバコを吸っていると後ろからナミの声が聞こえた。

-女子校の卒業式の日-
顔も知らない下級生から「先輩」と呼ばれ手紙を渡された。
その場で読んで答えが欲しい、と。
ずっと好きだった。付き合って欲しい。そういう内容だった。
美大に進学することが決まっていたアタシとその子が付き合っていくのは、物理的にもまず難しいんだけど、
高校生ってそういうことも見えない。アタシはそういう青さが苦手だった。自分のそれも。

申し訳ないんだけど、あなたとは付き合えない。と言葉を選んで断った。
その子はどんどん泣いて、質問攻めにあった。
今付き合っている人が居る。そう言っても引きさがってもらえない。
どうしたものかと思っていると教室のドアが開いてナミが入って来た。

「お待たせ香!一緒に帰ろう。」
ナミは泣いていた子の肩に手を乗せて優しく言った。
「ごめんね、香は私と付き合ってんの。だからあきらめてくれる?」
驚いて目を丸くしているうちに、その子は教室を出て行った。

「あ、ありがとう…!」
「いいよ。あれ本気だから。やっぱ、香を守れるのは私しか居ないって思ってる。」
「さっきはありがとう、助かった。でも…付き合えないよ。だって…。」守る?心に広がっていく違和感。
「ん?解ってるよ。私は女だから。今すぐにとは言わない。
香は私のこと一番理解してくれて、私も香のこと一番理解してきた自信ある。
実はけっこう前から香のことが好きだったんだ。言わせてくれてありがとう。」ナミは無理して明るく言った。

女友達として好きだけど、恋愛対象ではないナミ。
敢えて言うなら、助けあったり守り合ったりするのはあくまで友情としてだ。
そんなアタシにとって、ナミの告白は一切笑えない出来事だった。
ナミがレズビアンである(男にはハマれない性分)とカムアウトしてきても、アタシは気にしなかった。
彼女の恋愛対象が同性でも異性でも構わない。ずっと友達で居たかった。
突然の告白を受け、それを喜べず、アタシは逆に傷ついていた。
今まで見えなかったふたりの間にある一本の線が、はっきり見えたような出来事だった。

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「香、今でも私は…。」振り返るとナミは静かに泣いていた。
そんな彼女を見て複雑な気持ちになった。

確かに私は自分をノンケだと思っていた。
それ以前にナミは友達でしかなかった。
そんな私がマユさんに恋をして敗れた。

「アタシ、失恋したんだ。」
「え?」驚くナミ。
「とにかくもう終わったの。」明るく笑おうとして泣きそうになった。

その時ナミに抱きしめられた。

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