第21回 カンヌ最高賞映画に「本物のレズビアンSEXじゃない」の声

「レズビアン」は、おフランス語で「レズビエンヌ」よ。

ボンジュにちわ。レズビエンヌまきむらよ。

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毎週月曜、こちらの連載、世界のニュースから性を考える「まきむぅの虹色ニュースサテライト」をお送りしております。

書いているわたくし、まきむぅこと牧村朝子は、レズビアンライフサポーターを名乗って、人間の性のあり方について書いたりお話したりするお仕事をしています「10分のセックスシーンに10日かかった」の部分ばかりを日本含む各メディアにクローズアップされ、また原作者マロウ氏も長文ブログ記事から素材提供:PAKUTASO

「私レズビアンだけど」と前置きしても、それは人間を「レズビアン」という言葉で区切って「レズビアンのことなら全部知ってるから」と言ってしまうような危険性を秘めています。

「本物のレズビアンセックス」と言っても、「じゃあ偽物のレズビアンが、偽物のセックスがあるのかよ」っていう話になってしまいます。

そもそも、女性同士のセックスだからというだけで、それを勝手に「レズビアンセックス」とラベリングしてしまうこと自体が大きなお世話です。例えば当人たちはバイセクシュアルやパンセクシュアルなどであると自認しており、レズビアンではない女性同士なのかもしれません。例えば女性同士で交際していても、「自分たちはレズビアンじゃない。愛した人がたまたま女性だったというだけ」と考えているかもしれません。

にも関わらず、女性同士のセックスシーンをみてして

「私レズビアンだけど、これは本物のレズビアンセックスじゃない」

と言ってしまうことは、「レズビアン」という言葉の縄を手に、相手の自由も自分の自由も締めつけている行為であるとしか、わたしには思えないのです。

★「本物のレズビアンセックス」なんて、定義しなくてもいい

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「私レズビアンだけど、これは本物のレズビアンセックスじゃない」

こういうのって、要するに言いたいのは「自分には“本物”がわかります(だから自分は“本物”です)」ってことなんだと思うのよね。

だけれども、いったい、“本物”ってなんなのかしら。“本物”かどうかを、いったい誰が決めるのかしら。

「私レズビアンだけど、本物のレズビアンはこんなセックスしない」

「俺はFtMだけど、本物のFtMは自分のこと『私』とか呼ばない」

「自分はバイだけど、結局ゲイだと言い始めたあいつは本物のバイじゃなかった」

何かを“ニセモノ”として排除することで、自分の“本物”さを保つ必要なんて、実は、無いんじゃないのかしら? それこそ、“本物”であるならば。

「本物のレズビアンセックス」だなんて、定義する意味はない。わたしはそういうふうに考えています。映画に描かれているのは、あくまでも主人公アデルと恋人エマのセックスであり、“レズビアンセックス”ではないのです。

自分のセクシュアリティを指す言葉に帰属意識を持ち、誤解されたくないと思う気持ちは確かにわかります。けれども、誤解には誤解であるとして抗議すればいいのであって、本物/偽物の線を引くことにあまり意味は見出せません。

“レズビアン”っていう言葉から、もっと自由になってもいいんじゃないかしら。とあるYouTubeユーザーは、こんなふうにコメントしていましたよ。

うん、確かに、僕は本物の妖精なんだけど、映画に出てくる妖精ってニセモノばっかりだよね!

ということで、読んでくださってありがとうございました。また来週月曜日にね! まきむぅでした◎

 

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