第59回 アタシたちの生まれた場所

あけましておめでとうございます。

っていやーん、もうすぐバレンタインデーじゃないのぉ。

そいや、バレンタインって世間様じゃかなりオオゴト~(IKKOさん風)なラブ・イベントなのに、昔から2丁目ゲイの間では微妙な反応でした。これって日本では「女子が男子にチョコをあげる」っていう女子イベントのイメージが強すぎるせいもありそう。

ギャグとしてのオネエ騒ぎはありでも、恋やエロでのアピールにおいて、(男が男を好きな)ゲイコミュニティ内で「女性性」を強調するのは基本、得をしないですからね。

そしてそんな女性性強調行為の権化ともいえるのが女装であり、日本のゲイ女装の多くは「女装で目立つの楽しい!でも色恋モードの時は萎えられたら困るから女装はなるべく内緒」という人が多いような気がします。アタシもそうっ!

封じがちな女性性をパフォーマンスに込めて爆発させたゲイ女装が、万国共通の目立つゲイ・カルチャーなのは間違いないのですが、同時にそれはコミュニティ内での非モテを引き受けることにもつながる諸刃の魅力。

まあそんな葛藤が、また女装のいい隠し味にもなってるんでしょうけど。

アタシが、そんな女装というパフォーマンスに手を出したのは、1994年のことでした。

ルワンダで大虐殺が始まり、ネルソン・マンデラが黒人大統領となり、オウム真理教がサリン事件を起こし、ジュリアナ東京が閉店し、プレイステーション初代が発売され、Netscape Navigatorバージョン1が発表された頃に……

アタシは女装を始めました。

(と並べるとすごいことのように聞こえそうだけど、22歳のオカマが周年パーティで女装したってだけ)

まさか20年続けるとは思いませんでしたが、
その記念すべき初舞台が、Bar Delight だったのです。

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そう、先日惜しまれながら閉店となった新宿2丁目の常設バコ『ArcH』につながる、最初の店舗です。

この Bar Delight を生み出してくれたのは、
今は亡き2丁目の母、アキさんこと川口昭美(あきよし)さんでした。

北海道出身、19歳で上京し、歌舞伎町のショーパブで働いた後に、2丁目でバーやビデオ会社を経営した実業家ネエさんです。

Bar Delight オープンの数年前から、欧米の華やかなゲイシーンの象徴でもあるクラブでのゲイナイト文化が、YUKI INTERNATIONALさんなどの尽力で日本にも輸入され、「月イチのミロスやゴールドじゃ飽き足らないわぁ」というニーズが生まれ始めたまさにその時に、アキさんは常設の小バコを2丁目内にオープンしてくれたのです。

ここから、それまでの「最大公約数的ゲイナイト」だけではない、毎週末、「女装」や「野郎系」「デブ」「オネハ」「J-POP」など細分化されたテーマのパーティが開催される流れができ、それぞれのお約束、人気モノ、ゲイカルチャーを生み出すことになりました。

最初の年は「ゲイ中心の周年パーティだから、仮装するなら女装よね」という安直な気持ちで、薄いメイクにチャイナドレスにマラボー、という、忘年会ノンケ女装と何も変わらない痛々しい女装ではしゃいでいたのを思い出します。(エスムラルダさん、サセコさんも同時にデビュー)

ちなみに当時はまだ「女装名」という感覚もない時代で、ゲストに来てくれたマー様(ドラァグクイーン界の長老マーガレット)も普通に「小倉東です!」と本名を名乗ってらっしゃいました。

このパーティで女装の楽しさにハマったアタシたちは、その後ゲイパレードに女装ユニットで参加したりなどの自己主張を始めます。翌年再び Bar Delight で開催した周年パーティ『CAMP’95』では、ゲストに、ショードラァグとして活動し始めていたホッシー先生やオナン・スペルマーメイドさんをお呼びしたり、当時「にくぼう」君というハンドルネームだった新人大学生ゲイの肉乃小路ニクヨさんを女装デビューさせたりしています。

こうしてすっかり勢いづいたアタシたちは、その翌年には、現在の Campy!bar と同じ場所で「2丁目初のオープンカフェ」と評していただいた「UPPER CAMP CAFE」という月イチパーティを開いたり、Bar Delight から ZINC、ACE と名前を変えた場所でレギュラーの女装ショーパーティ『Campy!』を作っていったのです。

そんな中、「楽しいことしよう」という勢いだけで作っていた集団芸に、ほころびが見え始めました。笑えるモノ作りを継続していく中で、ギャラテキトーとか台本ギリギリとか、アタシのいい加減な性格が災いして、メンバーが不信感を覚えたのです(女装アバレの変)。自ら招いた事態とは言え、それなりに凹みつつ、アタシは女装仲間とのパーティ作りを一段落させることに。ACE で『バイバイCampy!』パーティを開催し、最後にアタシは舞台上で挨拶をしました。

アタシなりに、2丁目での女装ショーという表現で、ゲイ好きする映画やアニメのパロディを見せたり、オネエ感覚の笑いを集団でお見せしてきたことに意義を見出し、

「アタシたちはずっと、意地悪なノンケから、子孫を残せないから要らない存在だ、なんてことを言われたりもしてきたけれど、子供を作れないのなら、その分、笑いや楽しさを生み出せばいいんじゃないか」

というようなことを、語らせていただきました。

当時はひたすら笑い笑いでやっていたので、こういうマジメっぽい発言は自分にとってもチャレンジでしたが、
その時、会場にいたアキさんが、ひときわ大きな声で

「そうだ!!」

と受けてくれたのです。
もしかしたら、それほどの大声ではなかったのかもしれませんが、アタシには本当に大きく力強く聴こえた声でした。

あの空間を生んでくれた、2丁目のお母さんが、汚くて稚拙なお笑い女装集団なりに想いを込めてもの作りをしていたことを、理解し、応援してくれたんだ、と心から喜びました。

そして2000年。当時のパレード実行委員会と協力し、アキさんは2丁目振興会を設立。新宿2丁目に1万人の人々を集めた「レインボー祭」を開催しました。
赤線地帯の頃から細々とセクシュアルマイノリティたちが身を寄せ合って作った2丁目の空に、初めて花火を打ち上げたのです。
アタシはその時司会をさせていただいていたのですが、バカみたいに泣いたのを覚えています。

その2年後、2002年にアキさんは2丁目の事務所で脳出血でこの世を去りました。

ACE は経営母体が変わり、それでも偉大なハコからの「架け橋」となるようという想いが込められ ArcH と名づけられました。タカキはじめ、現場のスタッフはほぼゲイとレズビアンで構成されていただけあって、ストレート資本の経営になっても、アキさんの想いは受け継がれていたと思います。

そんな ArcH も、先月1月25日に閉店。

そして、その直前には、ゲイDJの中村 直さんも亡くなりました。

彼も、一般の音楽シーンでも評価された人気DJでありながら、最後まで2丁目バコやゲイらしい選曲にこだわった方。晩年のツイートでは人権や平和に関するものも多く、大事なことを次の世代に伝えようとする母心のようにも思えました。

こんな話ばっかり書いていると、つくづく自分のババア化を思い知らされますが、
アキさんが作ってくれた Bar Delight からのあのハコや、そこでナオさんらが流してくれた想いの詰まった曲たち。

それは関係のない人にとっては、ただの歓楽街の薄汚れた地下空間だったり、うるさい音楽になってしまうのかもしれませんが、

寄る辺ない不安を抱えたアタシたちにとっては、同じ気持ちを分かち合える人たちが集まるホームであり、
アタシたちはここにいる、こんなに生を楽しんでるんだという、叫びだったと思うのです。

ラストパーティの夜。
アタシも店ママを抜けて、あの場所で初めて披露し、何度も何度もイカせていただいたナウシカになってきました。
あの舞台上での、最後のアクメ。
絶頂のあとはちょっぴり虚無感が残るもの。
オカマ人生の一つの章が、終わったように感じています。

アキさん、ナオさん、そして彼らの想いを受け継いだ皆さん、
本当にありがとうございました。お疲れ様でした。

90年代、2丁目に生まれた喜びと楽しみが、
次世代への架け橋に乗って、いつまでも輝き続けますように。

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