第26回 同性婚について、イエス・キリストにあれこれ訊いてみた。ただし、大川隆法「幸福の科学」経由(笑)。

私がやっている(ただしくは、やろうとしている)古本屋の屋号は、「オカマルト」という。オカマとオカルト関連書籍専門の古本屋だから、オカマルト。わりと気に入っているネーミングだ。だが、人に言うと、必ず笑われる。ドラァグクイーンが古本屋をやっているということ自体が珍妙なせいなのか。はたまたオカマとオカルトの取り合わせが奇天烈なのか、必ずや失笑される(笑)。オカマとオカルトは、一見、まったく結びつかないようだが、実は同じものだ。同じ質を持ち合わせているというか、同じ位相にある。少なくとも、僕の中では、そうだ。

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かつて新宿1丁目で営業していた「オカマルト」の様子。現在は、休眠中。永遠の再開準備中(笑)。

“オカルト”といえば、悪魔、オバケ、幽霊、妖怪、心霊やら超常現象、超能力、UFOからツチノコまで。ありとあらゆる意味不明でおどろおどろしいものがその中に投げ込まれている。とらえどころのない概念である。だが、その語の意味からひもといてみると、面白いことがわかる。そもそも“オカルト”という呼び名は、「ラテン語:occulere の過去分詞 occulta(隠されたもの)を語源とする」(Wikipediaより)とある。では、何から(何によって)隠されてきたのかといえば、そのときどきの主流であり正統とされる、知識・理論体系によってである。

たとえば、キリスト教が生まれ、この新しい宗教がヨーロッパから全世界を席巻してしていく過程で、それまでのギリシア・ローマ神話の神々は異教として排除され、土着の民俗信仰やアミニズム、民間療法や占いといった風俗・風習も弾圧されていく。そして、異端とされた文化は、隠されて(隠れざるをえなくなって)いくのであった。それまでの民間療法や祭祀祭礼(呪い、まじないを含む)を司っていたシャーマン達は、後に“魔女”と呼ばれキリスト教のもと異端審問にかけられ処刑されていく。悪名高き中世暗黒時代の“魔女狩り”である。ちょうど日本がアジア諸国を植民地化していた時代に、まず神社を建立し、日本語を強制し、彼らから彼ら自身の文化を奪おうとしたことと似ている気もするのだが……。

世界は近代化していく中で、その理解を超える意味不明でおどろおどろしいものをオカルトと呼んだ。「立場が異なる知識体系の内容はそれがどんなものであれ、大抵はとりあえず慣れないうちはひどく意味不明であり、まるで得体の知れないものを扱っているよう に感じられることから、“隠されたもの”という語があればその語を用いて非難してしまいたくなるという人間の心理上の事情もある」(Wikipediaより)。しかし、それらの隠された智は地下で脈々と受け継がれ、現代にまで続く。たとえば、ユングは星占いと心理学とを関連づけた。西洋医学があらためて漢方などの民間療法に着目するようになってきているといった具合だ。ニュートンの万有引力の法則ですら、当時の科学者からはオカルトのレッテルを貼られ非難されたというエピソードは、とても興味深い。視座が変われば、見え方も変わるということである。つまり、オカルトとは、これではない何か、ここではない何処かを志向する思想だといえる。

さて、人類の歴史の流れの中で、いつの頃からか世界は“異性愛”を中心に構築されてきた。キリスト教的倫理にもとづく、異性愛こそが主流であり、正統であるとする物語だ。そこからはずれた同性愛は、異端となった。同性愛は隠すべきものとして地下に押し込められた。それはまるでオカルトと同じである。

それゆえか、オカマゆえか、私は幼少の頃から異端なもの、ヘンなもの変わったものへの傾倒があった。テレビ番組の正義のヒーローにではなく、退治される異形の怪獣や怪人の姿に己自身を重ね合わせて、その悲哀に涙するような子供だった。それが高じて、所謂、オカルトの世界の禍々しいものたちへの偏愛が生まれた。主流であり正統とされる世界から切り離され、地下の闇に押し込められ隠されてきたものたちこそが、われわれのアイデンティティではないのかと考えるようになったのである。

ところがである。最近のオカマは、なんでもかんでも異性愛(者)の真似をしたがる(笑)。はては、同性婚である。「そんなにオモチャが欲しいなら、オモチャ屋さんの子供になってしまいなさい!」と、子供の頃に親からよく叱られたものだ。その言葉を借りるなら、「そんなに結婚したいなら、異性愛者になってしまいなさい!」だ(笑)。異性愛者と同性愛者が平等であることは当然だが、だからといって、それが異性愛(者)の様式を真似るだけでいいのか!? 同性婚の話を聞くたびに、そう思うのである。私の同性婚についての考えは、以前に書いたとおりである。この記事も相当批判を受けたが、今回も性懲りもなくまたまたこんなことを書いている。つくづく私は難儀な性格である(笑)。

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いつも批判的な意見ばかりを書いている同性婚問題であるが、それでも私の大きな関心事であることは違いない。自分の屁理屈ばかりをこねくり回していても仕方ないので、今回は同性婚問題について再度取り組もうと思う。そこで取り上げるのが、この本! 大川隆法『イエス・キリストに聞く「同性婚問題」性と愛を巡って』である(笑)。当事者の間でも意見の分かれる同性婚問題を、「もう、いっそのことイエス・キリスト、その人に聞いちゃいましょう!」という趣旨だ。どうやってイエス・キリストその人に答えてもらうのかといえば、宗教団体「幸福の科学」総裁である大川隆法の持つ特異な能力「霊言現象」によってなのである。

「霊言現象」とは、あの世の霊存在の言葉を語り下ろす現象のことをいう。これは高度な悟りを開いた者に特有のものであり。「霊媒現象」(トランス状態になって意識を失い、霊が一方的にしゃべる現象)とは異なる。外国人霊の霊験の場合には、霊験現象を行う者の言語中枢から、必要な言葉を選び出し、日本語で語ることも可能である。(本文より)

つまり、イタコに降霊したマリリン・モンローがズーズー弁で喋ったという話と同じか(笑)。ともあれ、大川隆法のありがたい秘蹟によって、イエス・キリストが同性婚について思うところを語っているのが、この本である。

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上段が、「幸福の科学」グループ創始者兼総裁 大川隆法。下段が、公開霊言の様子。「本霊言は、2013年7月31日、幸福の科学総合本部にて、質問者との対話形式で公開収録された。」とある。(口絵より)

大川隆法 今日のテーマは、「同性婚問題」という、少しきついものです。先ほどから私はウンウン言っているので(笑)、おそらく何か支障はあるのでしょう。

(略)

大川隆法 なお、イエスが“本当”のことをいうかどうか、わからないところもあります。もしかすると、「人」と「時」と「場所」によって答えが違う可能性があります。そういう気がして仕方がありません。

と、波乱含みのはじまりの公開霊言である。さぁ、いよいよ霊言現象が起きた!

イエス・キリスト イエスです。

綾織(注/幸福の科学上級理事兼『ザ・リバティ』編集長。今回の質問者。)今、欧米を中心に、同性愛、同性婚問題で非常に揺れております。これにつきましては、「イエス様のお考えが、どのあたりにあるのかが分からない」ということがその根本にあるかと思います。
キリスト教徒を中心に、世界の人々は、「今こそ、イエス様のお考えを知りたい」と切望していると思いますので、本日は、さまざまな観点から、お考えをお聞かせ願えればと存じます。よろしくお願いいたします。

イエス・キリスト うーん。

(略)

綾部 同性愛自体は、人類の歴史上、長くあったわけですけれども、「同性婚について、社会的にどうするか」ということは、現代においてクローズアップされてきている問題かと思います。
そこで、まず、「同性愛は、霊的に、魂の面から見たときに、どういう背景から出てきているものなのか」ということについて教えていただければと思います。

イエス・キリスト 宗教においては、「異性への罪悪感を強く言い過ぎた場合に、同性愛が流行る」ということは、歴史的に、よくあることであったかな。
例えば、「異性との交わりを持てば、地獄に落ちる」というようなことを強く言い過ぎると、「それを避けよう」という修業態度を取っているうちに、禁じられていない方に走ることは当然あるので、そういう意味での同性愛が流行っていくことは、おそらく、キリスト教でも仏教でも起きたことであろうし、ほかの宗教でもおきたことであろうと思う。

(略)

イエス・キリスト 人それぞれの考えの違いや趣味・嗜好の違いには、やはり、否定できないものがあるので、すべての人間を、まったく同じようにできない面はある。
それも、個性の違いとして許容できる範囲と、許容できない範囲とがあるので、そこのところの線引きが実に難しいと思われる。

なんとも歯切れの悪いイエス・キリストだが、終始、このような答弁が続く。トランスセクシュアルについては……

イエス・キリスト 現象として、持っている肉体は、男性なり女性になっているが、過去に……、まあ、キリスト教ではあまり説かれていないことではあるけれども、「過去の転生」というものもあって、そのなかで、「男女の混合体」とも言うべき魂経験をしているものもある。(略)これについては、「魂の秘密」が明かされていないので、十分ではないところもあるけれども、「そういう問題はある」ということだね。

と、やけに気弱というか、正直なイエスキリストであるが、輪廻転生があるとか言っちゃって大丈夫なのかと心配にもなる(笑)。彼(大川隆法に霊言したイエス・キリスト)は、もっとすごい爆弾発言までしちゃっているのである。

イエス・キリスト 先ほど、「子供はいたのか」という質問もありましたが、「歴史上は抹殺されていたけれども、存在したかもしれない」ということは申し述べておきたいと思います。
これは、カトリック教義を揺さぶることにはなりますが、「アモール(愛)の人ですから(笑)。しょうがない部分はあるかと思っております。

なんともお茶目なイエス・キリストである。なんだか好きになってしまいそうである(笑)。そんなイエス・キリストが同性婚問題にどう答えたのか知りたい方は、この本を読むべし!

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大川隆法『イエス・キリストに聞く「同性婚問題」性と愛を巡って』(幸福の科学出版/2013年 発行/ISBN 978-4-86395-379-6)

そして、もう一冊。宮谷宣史編 『性の意味 キリスト教の視点から』。こちらは、今日、キリスト教が性についてどのように考えているのかを、キリスト者(キリスト教徒)自身が論考したものである。『フェミニズムにおける性 その展開と意義』『キリスト教における性 その困難と課題』『新約聖書の性倫理 テストケースとしての同性愛』といった論文が並ぶ。その最後に紹介されているのが、大月純子『日本の教会とセクシュアル・マイノリティ 現実と聖書からの検討』である。それは次の様な文章で結ばれている。

 数年前、はじめて出会った男性同性愛者の友人が「二一世紀には同性同士が堂々と手をつないで歩ける世の中をつくっていけたらいいなと思っています。」という手紙をくれた。その手紙を読んだとき、私は「そんなことできるはずがない。」と思った。しかし、数日前にもう一度その手紙を読み返したとき『そんな社会を実現できるかもしれない。私たちが作りださなければ!」と思った。私はこの自分自身の心の変化に驚いた。しかし、それはこの数年の間に当事者たちとの出会いが与えられたこと、セクシュアリティの問題が私自身の問題であると実感させられるようになったことの所以であろう。このことを他の当事者の友人にしたところ「大切なのは手をつなぐということです。たとえ敵対している人であってもその人と手をつなげるようになりたい。」と話してくれた。その言葉を聞いて、私たちの社会では同性同士ではなく、異性同士が手をつなぐことにも「嫌らしい」というイメージを抱いていることに気づかされた。
しかし、「手をつなぐ」ということを「嫌らしい」と捉えること自体に「性」に対する誤ったイメージがあるのである。

かたやイエス・キリストを引っぱり出しての大がかりな口寄せ降霊術ショーに対して、なんと実直で真摯な言葉であろう。それは、自己に真摯に向き合った者だけが発せられる言葉だからだ。どちらも一般書店ではあまり見かけることのない本であるが、いずれも違った意味で興味深い本である。

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宮谷宣史編 『性の意味 キリスト教の視点から』(新教出版社/1999年 発行/ISBN 4-400-61591-X)

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