第36回 ミソジニー(女性嫌悪)炸裂!! 60年代末の同性愛啓蒙の書 ─ 芳賀國臣『必然的性革命』

アタシだってさぁ、昼間はただのオッサンなわけ。四六時中、女装してるわけじゃないんだから。パートタイマーのオカマってことね。でね、今日、事務所へ出勤途中の出来事。エレベータが来て、いざ、乗り込もうすると……。そこには先客が、ひとり。オンナが、ひとり。この馬鹿オンナが、腹立つんだわ。明らかに不愉快オーラを発するんだわ。無言の乗ってくんな圧力。あたかも痴漢でも見るような目で見てきやがる。
さぁ、それからが地獄。密閉された狭い空間に、ふたり。いやでも緊張感が高まるわさ。その馬鹿オンナ、アタシがちょっとでも身じろぎようものなら叫び出さんばかりの威嚇モードよ。いくら鈍感なアタシだって、その空気感には圧倒されたわ。これが5階までだから良かったものの、高層ビルの直行エレベータだったらと思うと、ゾッとするわ。長時間、逃げ道無しなんだから。
見た目はオッサンでも、ホモなの。アタシ。オカマなの。アンタだけじゃなくて、オンナ全般に興味なんて無いの! 痴漢なんてするわけないでしょ!! それなのに、人を犯罪者扱いするがごとき態度。そりゃ、さえないオッサンかもしれんが、だからって、このいわれ無き差別と偏見は、どうよ?(笑) 今日はまだ気持ちに余裕があったから事なきを得たが、虫の居所が悪かったら、反撃してたね。立ち直れないぐらいの打撃を与えてやったね。この自意識過剰の大馬鹿オンナに。
なんなんだろうね? このオンナの、“あの”感じ。自分は守られるのが当たり前で、自分を不安や不愉快にさせるのはすべて相手が悪い的な、“あの”感じ。エレベータはもとより電車でも、無言の乗ってくんな圧力で、車内が空いているにもかかわらず、ドア付近に仁王立ちしてる馬鹿オンナもいる。で、乗り込もうとすると、露骨に嫌な顔をする。ホント、殴りたくなるねぇ。いいこと、電車はね、“みんな”のものなのよ。お前はその程度のこともわからん馬鹿なのか、と言いたくなるわさ。

あ~~~~、スッキリした!

男がオンナの悪口を言うと、すぐにミソジニー(女性嫌悪)だと声高に糾弾しようとする人がいる。同様に、ホモが、ホモのことを批判的に語ると、すぐにホモフォビア(同性愛嫌悪)だと言いたがるホモもいる。フェミやゲイリブのような運動系の人間に多いタイプだ。
そうじゃないだろ。オンナは馬鹿だと言っているわけで無い。ホモがダメだと言っているわけで無い。だったら、馬鹿なオンナを馬鹿だと言ってなにが悪い! ダメなホモをダメだと言ってなにが悪い! そう思うわけだ。
ミソジニーやホモフォビアの厄介な点は、それを誰しもが持ち合わせているところだ。批判される側も、批判する側もまた同じように、この呪縛から自由ではあり得ない。ただし、己のミソジニーやホモフォビアに自覚的であるかどうか、それで大きな違いがある。

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さて、今回紹介する本は、芳賀國臣著『必然的性革命 現代のタブーに挑戦する知識人の倫理と論理』だ。1969年に出版された本書は、タイトルにこそ謳われていないが、全編、これ同性愛啓蒙の書なのである。この本の画期的なところは、同性愛を理解してもらいたい、といった目的では書かれていないところだ。当時の類書は、欧米の言説(たとえば、キンゼイ報告)などを孫引きにして、いかに同性愛が(異性愛と同じように)自然で、正しいことかを力説するものが多い。「だから、同性愛を認めてくれよ」と異性愛(者)に許しを乞うている印象だ。その中にあって、本書は、異性愛こそが間違っているのだから、同性愛(者)が正しいあり方を啓蒙してやろう、というスタンスで書かれているのだ。偉そうなのだ。カッコイイのだ(笑)。
著者は、“同性愛擁護の書”であるアンドレ・ジイドの『コリドン』に倣って対話形式で、凡人が懐疑的である哲人に対して、いかに異性愛が異常で間違っているかを説いてゆく。たとえば、こんな調子である。

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山口いち郎 画・本文挿絵より。悩めるホモの図。

 凡人 つまり、女性にたいしてだけしか性的興奮や性的反応を示すことができないということは、これもひとつの異常現象でありませんか。
哲人 君は何をいうか。セックスとは異性とのあいだで行われる現象ではないか。(略)だから、同性を見て性的反応を示したり、性的興奮を感じたりするのは、本来ありうべからざる現象だから、これを異常な変態性欲として一般社会から異端視される結果になるのだ。
(略)
凡人 それでは、あなたは異性愛が正常で、同性愛は異常だといわれるのですね。(略)本能ですか。
哲人 そうだ、本能だ。
(略)
しかし、人間の男女の結合は本能によるものだという“本能説”は、もうとうに科学的に否定されてしまっているのではありませんか。(略)他の動物のように、ただ性ホルモンの分泌によって単純に支配されているものではないのです。つまり、人間の性的欲求は、ホルモンの分泌に支配されて起こるのではなく、大脳皮質に与えられる刺激によって起こるのですね。したがって、その欲求が何によって刺激されるか、どのようにしてその欲求を充足すべきかは後天的な経験によって決定されていくもので、先天的な本能によるものではないというのが、現在だれも疑わぬ科学的な定説になっているわけです。

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山口いち郎 画・本文挿絵より。家畜のセックスより同性愛の図。

まず、人間のセクシュアリティが先天的に定められた本能ではないという、当時の言説を引き合いに、異性愛=本能説を否定。これで口火を切り、同性愛側からの反撃が開始するのだ!

 凡人 その理由はこうなのです。つまり、人間のセックスは動物とちがって主体的に自由な立場にありますから、右にも左にも行けるんです。異性愛にでも、同性愛にでも、どちらのコースにも行けるわけです。
 しかし、動物と同じ次元にある異性愛には“生殖”という結果がともなうが、同性愛は、いわば不毛の愛で、“生殖”の結果は出てこないのです。そこに、異性愛が保護され、同性愛がその反面において徹底的に弾圧をうけねばならなかった歴史的な理由があったというわけなのです。

凡人は続けて、こう語る。

 凡人 (略)同性愛を否定したのは、それが道徳的に悪いとかどうとかいうのではなくただ子供を生まないという、それだけの根拠でしかないのですよ。道徳的にいったら、生殖のためのセックスなんて、まるで人間性の尊厳を冒涜した畜生道 ── つまり、家畜のセックスというべきでしょうね。ここでは男女はただ“生殖”という目的のために組み合わされたタネとりの道具でしかないわけですよ。

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山口いち郎 画・本文挿絵より。崇高なる同性愛の図。

つまり、人間は霊長の長であり、犬畜生とは違う。それなのに、産めよ増やせよの生殖のためのセックスをしている異性愛は、動物と一緒だというわけです(笑)。今では、ペンギンや、多くの動物の中にも同性愛があることが知られているが、この時代、同性愛は人間にのみ許された高次の性愛だと、筆者は言いたいわけです。なのに、女なんぞとセックスするのは、家畜と同じだと言いたいわけです(笑)。
ならば何故、そんな素晴らしい同性愛が禁止され、弾圧を受けねばならぬのかについては、こう説明している。

 哲人 けっきょく、同性愛を否定し、これに厳罰を科したのは、人類の繁殖に直結しない性行為だから、権力者にとっていちばん憎むべき行為であったと、いうわけだね。
凡人 そうですよ、それ以外に同性愛を“悪”だと決めつけるなんの根拠もないじゃあないですか。(略)セックスを“生殖作用”という犬猫と同じワクの中に固定させ、それによって人的資源が増殖すると考えたればこそのはなしであって、だから、この生殖からハミ出したセックスを行う者があると、たちまち、その暴虐性を発揮してこれを厳罰に処したわけなのです。
(略)
哲人 (略)すべての生産が人間の労働力だけにかかっていた当時にあったは、人間が生殖できない、つまり、生殖と結びつかないセックスは、たとえそれが美しく、また人間的であり、そして、個人の人格の形成に役立つ崇高なものであったとしても、やはり、これを否定せざるをえなかったのだ、というのだね。

それが証拠に、人的資産を搾取する側、ときどきの権力者や支配階級の中には、同性愛が温存されていることを立証しようとする。

凡人 三代将軍の徳川家光は、美少年ばかりを愛して、女子をまったく近づけなかったのです。(略)時の徳川将軍といえば、日本の最大実力者でしたから、自分の欲することはどんなことでもでき、自分の欲しいものはなんでも手に入れることができたわけです。そういう立場になるとタブーもなにもないので女性などには目もくれず、美少年のほうに嗜好が移ってくるのですね。ふつう、下賤の輩であると、“おれが将来金儲けをして分限者になったら、金にまかせて天下の美女を集めてやろう”などと考えて、獺(かわうそ)のお祭りでもあるまいに芋虫みたいにブヨブヨして寸胴な女なんかをゴロゴロ並べて喜ぶのが常ですが、将軍ぐらいになると帝王的な余裕がでるので趣味性が洗練されてくるのですね。

本書は、こうして支配され、生殖に縛りつけられた人間の性愛を自由に開放すれば、当然、より「美しく」「人間的」で、「崇高」な、「洗練」された同性愛になるはず。いや、なるべきなのだとまで言いたそうである。そのための革命、それが“必然的性革命”が必要である、と提唱する。1969年の日本において、異性愛におもねることなく、同性愛至上主義を高らかに宣言した本書は、それだけで価値があると思うのだ。ま、身びいきと言ってしまえばそれまでだが(笑)。

革命的な本書を書いた著者は、この人。

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 芳賀國臣 福島県に生まれる。作家を志望して一九六〇年に上京後は、出版社等に勤務しながら独学自習。江戸文学特に西鶴に傾倒すると同時に、フロイト学派によって同性愛が性的退行現象として捉えられていることに強く反撥。以来、性科学の未開拓分野に異常な関心をもち、その文献・資料などの蒐集家としても知られている。現在は、ぼう大な“日本衆道史”の完成に専念している。
とのこと。彼自身のセクシュアリティについては明らかにされていないが、おそらくはそうだろう。オカマの直感ね(笑)。本書は、数多くの文献、はては新聞や週刊誌の人生相談からまで、豊富な引用を元に構成されている。それだけでも資料的価値がある一冊だ。彼の『日本衆道史』は、是非とも読んでみたいところだが、調べる限りにおいては見つかっていない。残念ながら、未刊の書か。

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山口いち郎 画・本文挿絵より。下等で粗雑で不味い女の図。

さて、この著者、同性愛を賛美するあまりに、女への風当たりは強い。先述の「獺(かわうそ)のお祭りでもあるまいに」のような独創的な悪口に始まり、つまり、女性は(注/男の)代用品だということなのです」「いかに女は下等で粗雑で不味いものだとかなんとかいっても、性慾がひとたびきざしてきたら、男はいやでも女を必要とする」「昔からのしきたりで、うまいものだ、おいしいものだと信じこまされてパクパク食べた“女”などという小汚い肉体」「バカな女は(略)ただノッソリと立っているだけで男が交尾猫(さかりねこ)みたいにゾロゾロ集まってくるように錯覚するのも無理ではないと、ミソジニーの嵐が吹き荒れているのも、本書の特徴である。ま、本人にミソジニーの自覚があったかどうかは、分からないが……。
 私はといえば不覚にも、その言い回しの妙に思わず笑い出したり、溜飲の下がる思いをしたり。内なるミソジニーに気づかされたわけである。ああ、ミソジニー、ホモフォビアとの戦いは、果てない。はぁ~。

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芳賀國臣『必然的性革命 現代のタブーに挑戦する知識人の倫理と論理』(朝日書店/1969年 発行)

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