第24号 52歳の私とカップル証明書とをつなぐもの~「90年代世代の同窓会⑥」

「老後の新聞」第4週は、ミドル(以上)世代の、キラキラも輝きもしてないかもしれないけど(?)、一生懸命ゲイとしての暮らしを求めている性的マイノリティのストーリーをお送りしています。今号は1963(昭和38)年生まれ、今年52歳になるゲイ、Jさんのストーリーです。

 *本稿にいうゲイは、注記のないかぎり性的マイノリティ全体を指して使います。

 完全クローゼットゲイ、タイ通いにハマった90年代

東北地方の出身で、高校まで地元で送ったJさんは、1982年に憧れの東京の私大へ進学してきます。
「地元は雪国で、同性愛をふくめ外の世界を僕はまったく知らなかった。高校2年のとき、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を読んで、続々登場するブランドや、表参道、広尾、六本木などの地名にショック(笑)。地元はあれもねえ、これもねえ、おら東京さ行くだーーまさにそれですね」

セクシュアリティの部分はどうだったのでしょう。
「小学校のころから自身のセクシュアリティへの自覚はありましたよ。でも、地元ではなにもなし。本屋で『薔薇族』を買ったことが一、二度ある程度。もちろん性行為の経験もなかった。まだネットもなかったしね。東京へ出て大学の4年間も、とくにゲイ活動はなかったな。一人だけ、バイ(?)の彼と短期間付き合ったのがはじめての体験で、そのほか映画館(ハッテン場)に何度か行ったぐらい。それより『なんクリ』に憧れた身は、都会の雰囲気を楽しむのに忙しくて(笑)」
時代はまだ1980年代前半、自分を肯定する情報にも環境にも乏しい時代だったのでしょう。

なお、大学の専攻は法学部の政治学科。丸山真男の高弟で市民運動家(べ平連など)でもあったT先生(私も名前ぐらいは存じ上げる)に就きます。Jさんがいまも社会問題に関心があるのはT先生の影響かもしれませんが、このかたのことはまた最後に語りましょう。

86年、現在も勤めている会社に就職。そして90年代の「ゲイブーム」の時代が来るわけですが……。
「雑誌やテレビでそんな記事や番組が流れているのは小耳に挟んでましたが、僕はとてもクローゼットだったので、無関心を通して情報を遮断してました。88年から2年、鹿児島で勤務したんですが、もうなにもないところで(笑)。たまに福岡へ高速バスで出てバーやサウナへ行くのが楽しみ。90年代に東京へ戻ってからは、ゲイ雑誌をたまに買ったり、ゲイビデオで楽しむのがせいぜいでした」

しかし、それが10年もたつと、さすがにストレスが溜まりまくり。そのときJさんがハマったのが「タイ通い」でした。97年にアジア通貨危機が起こってタイバーツが暴落、ゲイのあいだでタイ旅行ブームが起きます(世間もそうだったか? 笑)。主目的はマッサージとボーイ遊び。ゲイバー界隈でも、タイの子と「恋仲」になり日本に連れてくるとか養子にするとかで大騒ぎ、なぜか向こうの家族も一緒についてきたとか仕送りをしてあげてるとか、「???」な話も聞いたころです。向こうに移住をした人もいます。
「当時、年3、4回は行ってたんです。のめりこんでましたね。そのころ何度か見合いもさせられ、とても乗り気だった女性を断るなど内心でも苦しかったし、親にも責められていました。タイは息抜きというか、完全な逃避ですね」
もっともここで、結婚してみよう、すればなんとかなるかも、とは思わなかったと振り返ります。

 40歳、「結婚もせず、自分はこれからどうなるのか」

90年代、メディア等のゲイブーム記事にも目をそらし、パレード(90年代の、また2000年に復活したものも)の情報も知らず、なにかゲイサークルに参加することもなく、ゲイ友もほとんどなく、タイ旅行で悶々を発散させていた2003年、40歳を迎えたとき、気持ちの変化が訪れます。
「40歳といえば人生の半分、折り返し地点です。結婚もせず、自分はこれからどうなるんだろうと、なんとなく考えるわけです。じゃ、どういう生き方があるのだろうというと、見えない。やっぱりゲイコミュニティの人の知り合いを作りたいという気持ちが急速に沸いてきたんですね。それで、あるピアグループ系のサークルに参加して、2か月に1度ぐらい定例会に参加しました」
「なにか手がかりになることが欲しい、ほかの人がどう中年、40代を送っているのか、自分たちより上の世代で中高年を生きている人がいるなら会って話を聞いてみたい、そういう気持ちでした」

おなじころ、当時、私が編集・発行していた、同性愛者のライフスタイルを創造するコミュニティマガジンと銘打った雑誌『にじ』を書店で見つけ、連絡をくれたのが、私がJさんと知り合ったはじめでした。
「紀伊国屋で見つけたとき、これまでのゲイ雑誌と違う、こういう同性愛者の雑誌もあるんだなと感心。ゲイとしての人生を考えたいという『にじ』の志向が、僕の気持ちとぴったし重なった」

そのサークルを通じていまのパートナーと出会います。最初は遠距離恋愛を続けていたものの、6年前から東京で家を買って同居が始まりました。昨年は、交際10年を契機に、同性パートナーシップ契約を公正証書で作成。同性カップルになにも法的裏付けのないなか、こうした契約をすることで、せめて病院での面会や療養看護権を保証し、あるいは相互扶助の関係を外部にも表示したいと言います。パートナー方の親族にも、挨拶をしました。
おなじく家を買ったころ、両親にもカミングアウト。父はその後亡くなりましたが、母親はいまも釈然としないまま、それでも結婚を強いてくることはありません。むしろJさんが、遠距離介護になる可能性を思案しながら、東北の雪国で一人暮らしする母親を気遣っている日々です。

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『にじ』(季刊・全8号、にじ書房、2002〜04年)。同性愛者の暮らしやコミュニティの課題を生活者の視点から取り上げた記事で、同性愛者の「暮しの手帖」とも言われました。同性パートナーシップやエイジング(40代以後)、HIV問題にも先駆的に取り組むほか、福島瑞穂さんや上野千鶴子さんら社会の識者への果敢なインタビューも好評でした。
 パートナー証明、当事者が地元で動かないと実現しない

今回、私がJさんにインタビューをしてみようと思ったのは、渋谷区の同性パートナー証明発行のニュースがきっかけでした。彼は自分の住む区でも同様の制度ができることを望み、「私とパートナーは、区長に直接お会いし陳情をする、つまり区役所にカムアウトする用意がある。ツィツター上でたんに言うだけでなく、行動に移すことが重要と考えます」とツイートしていたことに興味を引かれたからです。

 —-同性カップルとして、得たい権利はなにですか?
「医療面会などはすでに書面を作っているので、不動産があるので、彼と住宅ローンを共同にしたいことかな。登記も共有にできないのは不安ですよね。いちおう自筆証書で遺言も書いてはいますが。税金が不公平とかは、僕らは共稼ぎで配偶者控除とか関係ないし、専業主夫になりたいわけでもない。健保や厚生年金もそれぞれが加入してます。生命保険は自分受け取りの年金とガン保険ぐらいで、とくにパートナーに受け取らせたい希望はない」

 —-今回の動きを、どう見ていますか?
「同性カップルを自治体が公式に認めるのが、法的効果はないとはいえ画期的だと思います」
「ただ、なぜ渋谷で、という経緯もいま時点ではわからないし、なんだか上から降ってきた感があって釈然としない。こういうことは、当事者がそれを求めて陳情なり請願なりをし、働きかけて得ていくのが筋じゃないのかと思って、あんなツイートをしてしまったんです。でも、なにか反応があるかなと思ったら、なにもないのは意外なほどでした」
「渋谷でできたら自動的に他の区に広がるとか、そんなかんたんなものじゃない。自分が住んでいる自治体のことは自分で考えないといけない。知ってる区議やツテを頼って、こういうのを求めていると当事者たちが声を出さないと、できるわけはないですよね。どうやったらそれができるのか」

—-それはかつて大学時代に教わった、政治学のT先生のお考えにもつながる気がします。
「彼は政治家になるとか政治学者になるとか、ましてや活動家になるとかより、僕ら学生に「市民になれ」と教えました。市民ってなにか。そのときはよくわかりませんでしたが、天下国家を論じて自己満足するのでなく、生活の現場で地域の問題に取り組み、自分で変えていく人のことを市民と言うんだと、最近になってわかってきました。先生は、政治のモデルは「統治」ではなく「自治」だとも言っていた。だれかスーパーヒーローが現われて変えてくれるのを待つのではなく、自分たちが動いて変えていく、その自治の担い手になれということを言いたかったんだ、と。いい先生だったんだな、とつくづく思います」

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 人生あと生きて30年、もうビクビクしたくない

 —-今回の一連のツイート、みんな実名のアカウントでしてますよね。会社の人とかに知れることは大丈夫なのですか?
「いま、どこでカミングアウトしてもいいという気になっているんです。きっかけは東日本大震災。おなじ東北ということもあって、ひじょうなショックを受けましてね。一瞬に万という人が津波に流され、原発事故もあった。風向き一つで、自分も死ぬかと。
そのとき思ったのは、自分も47、8年生きた、みんな死ぬんだという諦念というか、腹が括れた気持ちが出たんですね。今さら、あの人は男と一緒に住んでる同性愛者ですよと指差されても、もういいじゃないか、と。ツイートも本名で思ったことを言うようにしてます。それでこれまで「見ましたよ」なんて一切言われたことない。たとえ見られても、これだけ新聞テレビでLGBTとか出ていて、会社辞めろとは言われないだろうし」
「20代、30代の私は、ものすごく気にしてました。でも、あと生きても30年。そんなにビクビクしながら生きていくのもヘンだなあ、と。ここ10年ぐらいで「私は私でしょ」という気持ちが得られたのがなによりです」

Jさんは、こんなツイートも残しています。
「私たちは、派手な結婚式も、巨額な生命保険もいりません。たんに地味に二人で、気心の知れた仲間と、地域でゲイとして暮らしていきたいだけなのです」

若い人が希望を得るウェディングも大事、そんなビジネスが発展することも大事でしょう。しかし、50代のこのゲイの言葉も、また真実であることを、同世代の私はしみじみと噛み締めるのでした。

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