第49回 「甘いふぐりのにおいで春がきた」 1973年、農上輝樹編『聖液詩集』に込められた、ホモの悲喜劇。

今回は、『聖液詩集』である。「聖液」とは、つまり、精液である。ザーメンである。スペルマである。ありがたくも、その名を冠した詩集を紹介する。

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手前の「聖液」は、卵白とカルピスで作った特製の疑似ルマ(=疑似スペルマ)。私のではないから、ご安心を(笑)。

ねばねばと乳色に白濁して滴った恍惚の泥(『金玉集』より)
裂け目をひろげて溢れ出る白いものをじっと見ている(『聖液讃』より)
こってりとあったかい、出したばかりの性液(『聖液讃』より)
褐色のからだの上に、真っ白い液をドッと噴きこぼす夜の叫び(『聖液讃』より)
精液をしたたらせつつ男は生きているよ、そのうすく汚れた股間(『聖液讃』より)

斯様な、俳句とも、短歌ともつかないような、格言箴言めいたものあり、エピグラムあり。はては、便所の落書きに近いものまで(笑)。いずれも、男への愛と欲望を謳ったものだ。昭和38年から7年間にわたり、ホモで詩の愛好家のグループが発行していた同人誌『ルドン』に掲載されたものを、農上輝樹がまとめ上げたアンソロジーである。それぞれテーマに沿って、『裸体行』『男根歌』『精液讃』『秘毛頌』『金玉集』『亀頭冠』の5つの章に分けられている。これらの非定型詩は、農上によれば、「つきぬ愛欲と実生活の谷間にさすらいながら、性の怨念をつづった(略)無名のホモのうめきであり、したたりである」と。

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農上輝樹編『聖液詩集』の口絵より。

この「うめき」が凄い。「したたり」がほとばしっている。たとえば、こんな具合である。

風にぶらりんと、湯上がり壮年のふぐりかな(『裸体行』より)
ブリーフの端から、玉が一個溢れ出ている(『裸体行』より)
四囲刺青に囲まれれば、むくつけき肉筒も、彫り残したるものの、意外なあどけなさ(『裸体行』より)

ホモであることをおおっぴらにすることのできなかった時代。男の裸を見る機会さえごくごく限られていただろう。ましてや、性的な視線を向けることなど、とてもとても危険なことであった。おそらく銭湯。そこで見かけたチンコに注がれた視線が、熱い。視線がうめく。視線からよだれがしたたっているようではないか。はぁ〜。その視線は、さらに欲情する。奥へ奥へと突き刺さる。

腸がとぐろを巻いているとは信じられない若者の腹部がうつくしい(『裸体行』より)

ついには、体内まで幻視してしまうのである(笑)。

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農上輝樹編『聖液詩集』の口絵より。

ふたたび農上の言によれば、「生活者の執念がこもった性のアンソロジー」であり、「男根のイメージに充ち満ちた短詩型の表現の中には、ホモ小説の“描写表現”のすべてが煮詰まっている」のである。短い文言に込められたホモたちの執念は、詩人たちの欲望をあからさまにする。次に挙げる作品は、この詩集の中でも、特に私が好きなものである。

シャドオ・ボクシングをしている若者の腋毛がぞっくりと黒い(『男根歌』より)

「ぞっくりと」っていうのが、良いねぇ。各作品には作者名が記されていないので、誰のものかわからないが、この作者は毛フェチか。同一の作者のものかは不明だが、他にも毛が印象的な詩がいくつかある。

毛深い手が水にもぐって、銀色の時計はウォータープルーフ(『裸体行』より)
毛がにのような手でしごく(『精液讃』より)

毛深い男の手を見て、それが「毛がに」のようだと思いついたのだろう。なかなか面白い比喩である。自身も気に入っていたのか、くり返し、使っている。

男ざかりの味は毛がにのサラダ(『金玉集』より)

ついに、「サラダ」になってしまった!

やっぱり毛深い男が好きなホモの毛がにのサラダ(『金玉集』より)

さらに、こうなると、何が何だかわからない(笑)。ほとばしっている、としか言いようがない。エロを追求していくと、いつの間にか、どこかズレていってしまうのは、詩だけに限らない。企画もののアダルトビデオなど、ほとばしりのオンパレードである。昔、アナル拡張のビデオで、張り型をどんどん大きくしていって、ついには野球のバットをくわえ込むというのがあった。そこまでは、スゴイ!スゴイ!と見ていたが、その男優が、本気で「次は大根入れてくれよぉ~」と懇願したシーンで、吹き出してしまったことがある。いきなり生活感あふれる「大根」という単語が発せられたことが、可笑しくて、可笑しくて。「毛がにのサラダ」は、それに近い。もはや、アヴァンギャルド。完璧に、シュール(笑)。

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農上輝樹編『聖液詩集』の口絵より。

本人たちはいたって真面目なのだろうが、さめた目で見ると思わず笑い出してしまう。そんな表現がてんこ盛りの詩集なのである。そのことについて、この本を「“世の中の変な本=トンデモ本”以上に、わけのわからない本、フツー一般とは違う価値観を持った本」つまり「脳天気本」として紹介した、唐沢俊一の『トンデモ怪書録 ─ 僕はこんな奇妙な本を読んできた』で、実にうまく評している。

 ……世の中には、いくら生真面目に取り扱っても、ツイ字面で笑いを誘ってしまう単語というものがある。
まして、それについて深刻に悩み、苦しんでいる人がいると思うと、その悩み、苦しみについては大いに同情しはするものの、どうしても笑いを催さずにはいられないものがある。それが金玉とか、亀頭という単語だ。実は、ホモという存在のもっとも大いなる悲劇はここに存するのであるが。
たぶん、これを読んで、彼らの悩みについて深く考えたホモのみなさんも、心のどこかで、ちょっとは、場違いなユーモラスさを感じていたのではないか。
ナポレオンの言ったように、悲劇から喜劇までの距離は、極めて短いものなのである。

なるほど、慧眼である。さらに、唐沢は、この本に収められたいくつかの作品が、三頭火を下敷きにして作られたと看破している。『聖液詩集』は、なかなか手に入らないだろうが、唐沢の本なら、まだ買えるはずだ。数多くの作品が引用されているので、まずは、これを読むと良い。

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農上輝樹編『聖液詩集』の口絵より。

さて、その一方で、『聖液詩集』には、ホモである私たちにとって、胸に突き刺さるような作品も多く収録されている。

男地獄の闇を食う者(『亀頭冠』より)
事務所から映画館へ、映画館からバーへ、痛みに耐えかねてさすらう、冬の日(『亀頭冠』より)
肉はもういい。だけど、この心のさびしさよ(『精液讃』より)
ホモで老いる、相聞もあらなくに(『男根歌』より)

「事務所」とは、ハッテン便所のこと。満たされない孤独な思いを抱いて、ハッテンバをめぐり、そして、ゲイバーへ。男地獄をさまよい歩いても、肉の交わりしか得られなかったのが、当時のホモ達である。そして、かつて体を重ねた相手とも音沙汰のないまま、孤独のうちに年を取っていくのである。それを思うと、この詩集を読んで、笑ってばかりもいられない。

この本が出版されたのは、昭和48年(1973年)。しかし、時代は変わりつつあった。

昭和29年の春から、ホモの道を歩いてきた(『亀頭冠』より)
「逞しい生活者になりたいな」と、気弱なホモが念(ねが)って言う(『男根歌』より)
屁の河童(かっぱ)蛙の面に小便になりたしと思う、われはホモ(『亀頭冠』より)

こうした詩も、また、歌われていたのである。絶望から喜劇が生まれ、希望から悲劇が生まれる。このふたつは、ともに分かちがたく存在する。その双方を歌い上げた詩集であるといえる。

ホモ誰しもが一度は経験する“ホモの苦痛”を書き綴った、これら歌疵(うたきず)だらけの歌は、性の苦悩を背負った男たちの『人間の証明』であり、それはまた『この時代の』証言でもある。

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なお、この本には、三島由紀夫の割腹写真を撮った、写真家 矢頭保による8葉の写真が口絵として収められているのも、価値が高い。いずれも、彼の3冊の写真集『OTOKO』『体道』『裸祭』のいずれにも載っていないものである。

最後に、取っておきの6篇を紹介して、今週は、これまで!

甘いふぐりのにおいで春がきた(『精液讃』より)
愛する男の、男のぬくもり(『男根歌』より)
惚れた男のものなら、雲古のシミさえ愛(いと)しい(『精液讃』より)
アナルに指を入れて、そのにおいをじっくりと嗅ぐ(『男根歌』より)
若者の足の臭い、塩昆布かよ(『男根歌』より)
書くことは排泄すること、たまれば出すだけ読む方は、読みすてて精液を出すだけ、こともなし。(『金玉集』より)

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農上輝樹編『聖液詩集』(第二書房/1973年 発行)

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唐沢俊一の『トンデモ怪書録─ 僕はこんな奇妙な本を読んできた』(光文社文庫/1999年 発行/ISBN 4-334-72884-7)

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