第55回 「かなまらぁ~、でっかいマラ!」 かなまら祭と、ホモの祭り好きについて。

「かなまらぁ〜、でっかいマラ!」なんとも艶っぽい掛け声と共に、巨大なチンコが街を練り歩く「かなまら祭」が、ここ数年、注目を集めている。その様子は、2CHOPO編集部がルポしたこの記事をご覧いただきたい。

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2015年「かなまら祭」の宣伝用ポスター。

「かなまら祭」は、金山比古神(かなやまひこのかみ)と金山比売神(かなやまひめのかみ)を祀る、川崎にある「金山神社」が執り行う祭礼だ。世界でも珍しい性神信仰の祭なんだそうだ。なんだか、由緒正しい、厳格な秘祭のようである。そもそも、漢字ばかりで小難しそうだ(笑)。
ところが、Wikipediaによれば、その縁起は、「金山(かなやま)と金魔羅(かなまら)の読みが似ている」からだという……って、なんだ、駄洒落じゃん! でもって、魔羅=チンコだから、ご神体は巨大なチンコにして、御輿にして担ぎまわろうってのが、この「かなまら祭」なのだ。悪ふざけか(笑)。しかし、まぁ、祭なんて、そんなものかもしれない。

ふたたび、Wikipediaによれば、「かなまら祭」の歴史は、意外と浅い。明治以降さびれてしまっていた金山神社だったが、1977年、その信者組織である「かなまら講」が中心になって「かなまら祭」を開催。その時に「江戸時代に川崎宿の飯盛女が性病除けや商売繁盛の願掛けを行った『地べた祭』」を復活させたのが、現在の「かなまら祭」の原型だという。
さらに、1980年代のエイズ禍を逆手にとって、性病除けのお祭りとしてアピール。これが話題となり、インターネットの発達と共に、世界中に知られるようになった。
いまや、毎年、押すな押すなの大盛況! 今風にいえば、ブランディングとリノベーションの大勝利である(笑)。どこぞの代理店が仕掛けたのではないかと思うほどだ。

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公認のコラボレート商品「料亭恵の本」の「かなまら巻き」。(金山神社公式TWITTERより)

それに気をよくしたのか、商売っ気も出てきたらしい。今年から、地元の商店とコラボレートした商品も企画したらしい。そのひとつが、「かなまら巻き」である。太巻き1本とおいなりさんを2個、お皿に盛り合わせたもので、まんま、チンコやん! こりゃ、悪ふざけが過ぎるのではとも思うが、ま、お祭りだから、いっか(笑)。

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黒木貴啓『奇祭『かなまら祭』が記念撮影用の男根型モニュメントの自粛を発表 参加者の露出行為を受けて』という記事。(2015年4月8日『ねとらぼ』より)

ところが、人気が出て、たくさんの人が訪れるようになると、当然、バカも増える。今年の「かなまら祭」が終わって、こんなニュースが発表された。来年は「記念撮影用の男根型モニュメントの自粛」をするというのである。
何があったのかは現場にいなかったため分からないが、『ねとらぼ』によれば「祭りの本義を無視した露出行為」があったためとされる。ひとりは「着慣れていないためか締め方が緩く、局部が見えるかどうか際どかった」という。もうひとりは、「局部を出している姿を係員が舞台上から発見。場内放送で注意するとすぐさまそれを仕舞い、人混みに消え」たそうだが、「ネットの情報から本物の局部ではなく模造品だった可能性もある」とのこと。
いずれも現行犯で逮捕されたわけではないので、アウトか、セーフか、判断が難しいところだ。ただし、主催者としては、今後、エスカレートしていくことを恐れたのだろう。厳しい決断を下したようだ。以下、「金山神社」の公式ツイッターに発表された声明を見てみよう。

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「金山神社」公式TWITTERより。

これによれば、「褌姿での祭の根幹や本質を無視した“悪ふざけ”に対し」「祭の根幹や本質を無視し目立つ為に当社のかなまら祭を利用することはとても許容することは出来るものではありません」とのこと。主催者のくるしい心中が察せられる……のだが、なんだか釈然としない気もするのである。

いったい論点は、どこにあるのか?

チンコ(状のもの)を出したことが問題なのか? だとしたら、ご神体がチンコというこの祭自体がアウトである。では、悪ふざけが問題なのか? とすれば、「かなまら巻き」は、どうよ? 悪ふざけ以外なにものでもない(笑)。ということは、本質を無視したことが問題なのか?

しからば、問う。本質とは、なんぞ?

少なくとも、ここでは、本質に適った出して良い正しいチンコと、本質に適っていない出してはいけない悪いチンコがあるという前提が想定されているわけだ。

はたして、チンコの本質とは、一体、何のなのだろう。

……なんだかなぁ。チンコに変わりがあるわけでなし。悪ふざけか、悪ふざけじゃないか。正しいか、間違っているか。本質か、本質じゃないか……などといったことを論点にしてはいけないような気がする。そもそも「祭」とは、清濁併せ呑むというのか。本質的に「猥雑」なものであると思うからだ。

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祭りとは、平凡な生活をみごとに破ることである。そのことによって、日常生活の真の意味を問いつつ、それを持続しようとするものなのである。
人間の生活は、それぞれ個々別々に、実にこまごまとした日常のくりかえしに過ぎず、それはさまざまな形を持って変化しているものであるけれども、結局のところ無始無終の大きな宇宙のいとなみの中の、一波一浪にすぎない。それらは、結局くりかえしに、すぎずすべてはむなしさの中にのみこまれてゆく。そのくりかえしにすぎない一波一浪の動きをいろどり、意義づけようとするもの、それが祭りなのである。
従って、祭りはつねに厳粛であり、猥雑であり、時として狂気ですらある。

(国学院大学(注/原文ママ)助教授 阿部正路『裸祭り考』より)

ハレとケという考えがある。日常はケであり、「祭」はハレである。日常を本質で正しいものとするなら、ハレの時空である「祭」は、非日常が許される無礼講の場となる。そもそも「祭」とは、乱痴気騒ぎを提供するために用意された契機だともいえる。そんな「祭」なのだから、多少、ハメを外したおバカさんが現れたとしても、ま、しょうがない。それを、本質に適っていないと断罪するのは、そもそも議論からして間違っているのではないかと思うのだ。

しかし、やはり、バカにはバカの対応もしなくてはいけない。逸脱が許されるのは、本筋があってこそ。本筋が破壊されてしまえば、逸脱することさえ出来なくなるのだから。そこら辺のさじ加減というか、「祭」の主催者が頭を痛めるところなのだろう。

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1972年7月号『薔薇族』目次より。

さて、先に引用した『裸祭り考』は、あたかも民俗学的論文のようであるが、これはなんとホモ雑誌『薔薇族』に掲載されたものである。やるねぇ、『薔薇族』。この号(1972年7月号)は、総力を挙げて「祭り」特集が組まれているのである。目次をたどると……

・評論 裸祭り考 阿部正路
・写真 各地の祭り
・小説 裸祭りに男が燃えた 水野忠彦
・写真 男祭り
・小説 夏祭り 池田隆嗣
・各地の祭り・ガイド
・六尺ふんどしのしめ方

全34ページ。雑誌全体の1/3強のボリュームを占める大特集だ。「祭」は、ホモ人気が高いのだ。

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1978年4月号の『さぶ』より、『大阪・四天王寺1月14日 どやどや』(撮影 森本浩史)。

他誌でも、「祭」は、非常に良く取り上げられるテーマになっている。たとえば、1978年4月号の『さぶ』は、大阪「四天王寺」の「どやどや」を取り上げ、カラーグラビアと、それを撮影したカメラマン 森本浩史のエッセイ『どやどやを撮る』を掲載している。

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1975年8月号『さぶ』より、『祭り』(画 三島剛)。

同じく、1975年8月号の『さぶ』では、『祭り』と題された三島剛のイラスト4点がカラー口絵となっている。

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1974年8月号『アドン』より、『photo-essay 祭の感傷』。

『薔薇族』『さぶ』と来れば、『アドン』も負けていられない。1974年8月号では、モノクロ写真に文章を添えた『photo-essay 祭の感傷』を掲載。

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1976年8月号『アドン』に掲載された、『アドン7月増刊号 三社祭写真集 祭の季節』の広告。

1976年8月号には、『アドン7月増刊号 三社祭写真集 祭の季節』の広告が掲載されている。三社祭だけでまるまる一冊、増刊号を出しちゃうんだから、いかにホモに「祭」の人気が高かったのかが、うかがえる。

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理由はいろいろ考えられるが、出版社、編集部側からしてみれば、「祭」は便利なのである。なぜなら、裸の男の写真が撮り放題だからだ。ホモ雑誌で裸になるモデルなど、そうそうは見つからなかった時代だ。「祭」に行けば、ふんどし姿の男がわんさかいるのだ。しかも、ノンケだ。肖像権も、今ほどうるさくなかった時代だ。制作費をかけずにページが作れる。これほどありがたいものはなかった。

ま、そんな世知辛いホモ雑誌の台所事情を差し引いたとしても、「祭」はホモに人気が高い。そもそもが、女人禁制男だけの世界だからだ。しかも、神に祈りを捧げるために、日常のケガレを落とした証として、ふんどしだけの裸に近い格好となるのである。裸の男達とくれば、ホモがほっておくはずはないのだ(笑)。なかには、その名の通り、素っ裸にならなくてはいけない「裸祭り」もある。これから紹介するのは、そんな「裸祭り」を舞台にした、水森忠彦の小説『裸祭りに男が燃えた』である。

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1972年7月号『薔薇族』より、小説『裸祭りに男が燃えた』(著 水野忠彦)。

電気器具工場で働く“ぼく”は、22歳。酒も煙草もやらず、遊びに出ることもない。「何の趣味もないぼくにとって、1年に一度のそれは最大の楽しみであった。どんなにケチといわれても、たった一日のその祭りに全精神を投入するために、ぼくは後はひたすら働くのだ」。“ぼく”が、それほどまでに思いを込める「その祭り」というのが、岩手県「黒石寺」の「蘇民祭」だ。一糸まとわぬ全裸の男たち、数百人から千人近くが、福のものである木片を奪い合う祭りである。

 皆は本堂の前に集まった。本堂の前の広場に、あちこちの詰所から、千人に近い男たちが集まり、からだとからだとがひっつくと、さすがにもう寒さはたいして感じなくなってきた。
(略)
わーっ! わーっ!
とあちこちから歓声が上がった。いよいよ祭りの本番にかかるのだ。
坊主は短か目にお経を唱えると、いきなりそれ(注/木片の入った袋)をほうり投げた。
どっと人波がくずれ、一人が背のびをしてそれをとり上げた。しかしそれでは納まらない。すぐ横からそれを取り上げられて、人々の手がのび頭の上で転々としだした。
「わあーっ、わあーっ」
と、あちこちから激しい声が起こり、人々のエネルギーは、その袋のある一か所に向かって集中する。そのたびに、歓声、どなり声、呻き声、叫びなどが、まき上がる。
(略)
もうどうなって行くのか、僕にはわからなくなってきた。すさまじいまでの押しつけだった。男の匂いにうっとりする。
立っていなくてもいい。流れにまかせていけばからだ中があちこちの肉体に挟まれ、ゆらゆら漂っていくのだ。
そして堅いものがあちこちでぼくのからだに触れてくる。中には早くも、腰や胸を抱きしめて、鋭い槍や、ずんぐりした棒を突き立ててこようとする者もいる。

裸の男たちの肉の海に揉みくちゃにされる経験と、その陶酔が、“ぼく”を「裸祭り」の虜にした。虜になった男は、“ぼく”以外にもたくさんいたようだ。

 もう何年前の祭りの時だったろうか。激しい波の中で、ぼくは無骨な両腕にしっかり抱きしめられた。そのふたつのごつごつの指が、ぼくの胸の前に回り、小さな乳首を触ったのだ。
(略)
人と人とが猛然と混み合う中だから、何をされても、誰にも分からない。その男のものは、熱く堅く、ぼくのお尻の肉の間に迫ってくる。からだ中がびりびりと震えてくる。
それは傘が開いた、素晴らしく横幅の広いものだということが、お尻に当たる感じだけで分かった。長さはたいして長くない。ただその根元が異常に太いのだ。きっと農村の青年のみが持つ、特別な肉体なのだろう。

コイツ、揉みくちゃにされながらも、冷静に観察してやがる(笑)。そんな“ぼく”は、昨年の祭りで、見事、福のものの木片を勝ち取った「胸毛のついた奴」に一目惚れをした。今年は、そのまぼろしの恋人A君に再会するのが、祭りの目的であったのだ。って、本末転倒はなはだしい(笑)。そして、ついに、今年も、A君の姿を見つけたのであった。

 しかし、ついすぐ目の前にしても、A君のいるところへ行くのには、厚い肉の壁がへだてている。それはまるで千里にも遠くにいるようだ。
(略)
彼はようやくに近づいてきたぼくをしっかり抱きしめてくれた。彼のからだのものも、もうたくましい形で、熱く、ぼくの腹に触れた。ぴくんぴくんという、うごめきまでが伝わってくるようだ。
(略)
かぐわしいキスだった。さわやかな男の汗のキスだった。すでにぬるぬるに濡れたからだが、お互いの密着を一層に高める。二人はしばらくの間、お互いのからだを探り合っていたが、彼のキスが首筋まで下りてきた。
それが二人の間の無言の合図であった。ぼくのからだは、くるりと後ろに向けられた。
やがて、ぼくは背後からしっかり抱きしめられた。そして彼の強く堅く、長く太い男の生命が、双つの肉の丘に迫ってきた。
それは入り口さえ定まれば、もう彼は何の力も自分で下す必要はなかった。あまりにも周囲の力が強いのだ。そのままぼくの肉の入り口を、まるでひきさくようにして入って行く。
「うーっ!」

いくらなんでも、アナルセックスはまずいんじゃないか。「祭」だからとはいえ、ハメを外し過ぎだ。いや。ハメを外したんじゃなくて、ハメちゃったんだから(笑)。こりゃ、「祭」の主催者は大変である。「かなまら祭」もそうだが、線引きというか、さじ加減が肝心だ。安易に、良いチンコ/悪いチンコ、正しいチンコ/間違ったチンコに分けて、断罪しようとするのは、そもそもが「祭」というものの本質から外れているのだから。難しい。つくづく、難しい思うのである。

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1972年7月号『薔薇族』(第二書房/1972年 発行)

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1978年4月号『さぶ』(サン出版/1978年 発行)

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1975年8月号『さぶ』(サン出版/1975年 発行)

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1974年8月号『アドン』(砦出版/1974年 発行)

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1976年8月号『アドン』(砦出版/1976年 発行)

さて、何をくだくだ書いてきたかというと、「かなまら祭」が似ているのである。ゲイパレードと。そもそもゲイパレードは、“ゲイリブ”を標榜してきたストーンウォール世代の運動の象徴であった。ところが、時代が移り、ストーンウォール世代がもはやジジイとなってリタイアし始めている。
若い世代の同性愛者は、古くさい運動論である“ゲイ”から、新しく“LGBT”へとしてブランディングし直した。運動のリノベーションを成功させたのだ。ところが、この“LGBT”というムーヴメントは、LGBTマーケットとして商売っ気バリバリだ。商業主義と拝金主義。ピンクマネーとどうつき合うかが、運動の大きな問題なのである。このコラボレートは「かなまら巻き」どころではない(笑)。
今回の事件が示すように、主催者の利権に繋がる“悪ふざけ”は守られる。一方、その「祭」を脅かす、悪いチンコ/間違ったチンコは徹底的に排除しようとしている。嘆かわしい。パレードにおいても、同様のことが起こらないとも限らない。悪いホモ/間違ったホモを作りだし、排除しようとする動きである。かつて、パレードで、女装や裸に近い格好の参加者が批判されたことがあった。「ああした奴らがいるから、同性愛者が間違って捉えられるのだ」という、お決まりの論調である。あほらし。それこそが、「祭」の本質を忘れた愚かしいことなのだよ。

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