第35号 「つなぐ」生き方~元TLGP2001委員長、 福島光生のいま 90年代世代の同窓会⑨

 

 4月26日、東京レインボープライドの会場でパープル・ハンズのブースに入っていた私に手を振って走り去っていく人がいました。

福島光生(ふくしま・みつお)さん。長くバー「mf(メゾフォルテ)」マスターとして親しまれ、いまから15年前、2001年には東京レズビアン&ゲイパレード(TLGP)実行委員長もつとめた人です。
そうだ! ミツオさんにいまパレードは、そしてゲイをはじめとした性的マイノリティの動きは、どう見えているのだろうーーずいぶん久しぶりに、ミツオさんのお店を訪ねました。

 かつて僕たちがやったことが現在へ受け継がれている

 
パレードの感想、いかがでしたか?
「参加人数も格段に増えたし、一般企業のブースや参加がとても目についた。僕らのときは学園祭的な手作り感がまだまだぬぐえなかったけど、ちゃんとしたイベントになっているのが羨ましい(笑)。でも、それはジェラシーじゃなくて、僕らがかつてやってきたことがやっと結実して今こうなった、やっていたことは間違ってなかったんだ、という思いかな。中心になってかかわっている人たちは、僕らもみんな以前から知っている人たちだし、彼らも昔からの人をリスペクトして、昨年の公式ガイドにはメッセージを特集するなど、ああ、繋がってるな、伝わってるな、という感じがあります」

それにしても近年の企業・経済への浸透は、目を疑うばかりです。
「よい意味での広告代理店的手法がうまく使われて、企業を巻き込んでいる。商業主義化への批判はあるだろうけど、経済が切り離せないことは事実。以前はパレードに協賛してくれる一般企業なんて皆無だったし、そもそも自分がカミングアウトして営業に回れる人がいなかった。僕がやった年はたまたまお店のお客さんのツテである外資系銀行と、インディーズに親和性のあったレコードショップが広告を出してくれたのがギリギリ。今のように、経済のがわから入れてほしいという時代が来るなんて(笑)」

もちろんいまでも影で営業に汗する人たちの努力があってのことです。その一方、かつて二丁目のバーを一軒一軒回って広告をお願いし、ゲイバーやゲイ雑誌がフロートを出して盛り上げた光景は消えていきました。
「二丁目やバーでは最近、自分たちのイベントだという意識が低下しているかもね。僕自身も新しいニュースを受け取るちからが40代のときに比べて衰えて、誰かがうまく運営してくれるならお任せしますという感じになっているし(苦笑)。パレードが二丁目やゲイだけじゃない、だれもが楽しむ東京の祭りにまで大きくなって、あらためてウチらもかかわってないとおかしくない? ってなる、これも過渡期なのかな」

ミツオさんたちがパレードを担当したころ、なにが一番大変だったのでしょう。
「まだ組織体制が未成熟で、小さなことまで全員で決めていたから、ともかく会議が長い、意見も割れる、きつい(苦笑)。メーリングリストも1日200本ぐらい回してたなあ」
「委員長としての僕が大変だったのは、みんながパレードに抱いている夢をどれだけ実現してあげられるか。みんな無償で働いてくれるかわりに、あれがやりたい、こんなことを実現したいって、さまざまな夢を持ち寄った。でもパレードは一つ、時間とお金も有限。そのなかでどう調整するかに悩んだね」

2000年に復活し、さまざまな人が「自分が自分であることの証し」を求めて熱くかかわった東京でのプライドパレード。その熱気の背後には、自己実現や最近言われる自己承認欲求の課題も影を落として(そもそも存在を否定されているマイノリティに承認が死活問題なのは当然ですが)、ときに収拾が難しい事態になることもあったのでしょう。組織のNPO法人化などの動きも聞こえ、近年、運営的にもめざましく発展しているパレード。過去の経験に学びつつ、今後も安定的に継続開催されることを私も願っています。

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昨年の東京レインボープライドの公式フリーペーパーは、東京でプライドパレードが始まって20年を記念し、これまでかかわった人びとのメッセージを掲載しました(福島さんは2人目)。手前は2001年のTLGPパンフレット。表紙写真は顔出しできる人や協力できる人を集めて撮影したもの。折り目のレンボーフラッグのあたりにミツオさんがいます。

 「それであなたは幸せなの?」、染み込んでいった言葉たち

ここでミツオさんのライフヒストリーを聞いてみましょう。
1958年、中野生まれの中野育ち。現在、57歳。そんな世代にとってゲイの自覚はどうだったのでしょうか。

「やっぱり受け入れるまでには随分、時間がかかったよね。学校の帰りに入った渋谷の映画館が偶然、ハッテン場だということを知って男とエッチすることを覚えた。でも、やったら記憶から消して、家族や級友や地元の人間関係などリアルな世界には侵食させないようにしてたんだ」

そんな二重生活に虚しさを感じはじめたころ知ったのが「談話室 祭」。1976年、薔薇族編集長の伊藤文学氏がおもに若いゲイの溜まり場として開業した喫茶店です。当時、東京でゲイライフを送った若者には、忘れられない場所だとか。

「行ってみたら、もろオネエの人もいて、若かった僕は引いてしまったけど、土曜の夜など人が多いときは、素敵だな、かっこいいな、という人もいて、同世代の友だちがどんどん増えていった。そんな友だちの一人が、のちに90年代にゲイ小説で注目を浴びた西野浩司で、彼や彼の当時の恋人ともいまだに交遊があるんだよね」
「祭には、当時の喫茶店によくあったけど、ノートが置いてあって、みんなが日記を書いたり返事をつけたり。いまでいうブログやSNSだね。そこに『ぜひタック(大塚隆史)さんのウェンズデーニュースというラジオ番組を聞いてください』という書き込みがあった。へえ、ゲイの人がラジオ番組(TBSラジオ「スネークマンショー」内)やってるんだって知った」
「そのうち西野に、大人のバーにも行ってみようよ、って誘われて行ったのが、開店間もないクロノス。そこであのタックさんがアルバイトしてたり、マサキと知り合ったり」

運命の糸に導かれるように、出会うべき人が出会っていったようです。

「タックがラジオを通じて若いゲイたちに呼びかけて、アワーズワークコミュニティが始まった。最初にやったのが『ゲイラップ』ーー自分をどうやって受け入れてきたか、これからどうやってゲイとして生きていくのか、それをみんなで語ろう、という集まり。海外だとまずこれをやるみたいだよ、って」

いまで言うエンカウンターグループ。マイノリティ運動が自分を固めるために行なうセッションを、ゲイのあいだでは当時、ゲイラップと呼んだのですね。70年代、アメリカのゲイリベレーションが、先駆者たちの小さな覗き穴を通じて少しずつ少しずつ、日本へ移入されたのです。

「そのころタックの家に泊めてもらったとき、ミツオはこれからどうやって生きていくの、って聞かれたことがある。ゲイのロールモデルなんて無い時代、僕は、歳が来たら結婚し、子どもを作り家を継ぐって言った。するとタックが、それであなたは幸せなの? だれが幸せになるの? 奥さんにずっと嘘つくの? 自分の人生だからなにやってもいいけど、人を巻き込むのはどうかな、って言ったんだ。そのときはどう返事していいかわからなかったけど、でもそういう言葉はあとでどんどん染み込んでいった……」

「僕はそのころからゲイの友だちと会うのが楽しくて楽しくてしかたがなくなり、それまでの地元の同級生との人間関係にそれがどんどんとって変わっていった。家族や仕事でもカミングアウトしていったんだけど、ノンケ社会で拒否られてもゲイの仲間がいるという信頼があったからできたこと。同世代で結婚するゲイがいくらでもいた時代、1950年代生まれで僕のように生きられたゲイは少なかっただろうし、僕はラッキーだったんだろうね」

福島さんはその後、80年代をコピーライター(まさに時代の仕事でした)として広告の世界を駆け抜けてゆきます。そして90年代の後半、お姉さんが二丁目に出したお店(一般向け)を引き継ぐかたちでゲイバー「mf」マスターに。お店も軌道に乗ってきたところに、「パレードの委員長を引き受けてもらえないでしょうか」というオファーが舞い込んだのです。

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 人と人とをつないでゆく生き方

2000年にパレードが再開したとき、二丁目でも川口昭美さん(アキさん。アキ企画社主)や隼人さんら街のキーパーソンたちがレインボー祭りを同日に開催し、アクティビズムとゲイタウンがはじめてタイアップ。その夜、1万人近いゲイが集まった二丁目の空に上がった花火に多くの人が「ゲイの一体感」「コミュニティの誕生」を感じ、涙を流しました

翌年へ向けて、この貴重な動きを継続させるべく、白羽の矢が立ったのが、ミツオさんだったわけです。

「僕はお店をするなかで2丁目のキーパーソンとも顔が広く、同時に7、80年代のアクティビズムの経験もあった。僕がつぎへ繋いでいく巡り合わせなのかなと思って、何度も考え迷ったんだけど、引き受けたんだよね。アキさんも、レインボー祭り実行委員会を二丁目振興会という恒常的な団体にしていった。アキさんは翌年、突然亡くなったんだけど、僕が会長として、仲間のマスターたちとその遺志を引き継いでいきました」

mfマスターとして、あるいはバディ誌の人気星占い師マドモワゼル・マリーとして、ゲイたちを見守り、声をかけ続けたミツオさん。その後、長い時間のなかで昨年7月、mfもいったん閉店しましたが、店舗を引き継いだ「Leo LOUNGE TOKYO」というお店で、ミツオさんはいまもカウンターに立っています。

ミツオさんにとって、二丁目ってなんなのでしょう。
「それは、東京ってなに、どんな街? というのと同じぐらい難しい問いだね(苦笑)。今や『ありのままで生きる』って誰でも言うけど、それを具体的に肌身で実感できるのは、この街ならではの作用だと思う。僕にとって、二丁目は実家にいるみたいな感じかな」

変わってきたとはいえ、まだまだ存在する差別の現実。一般社会を避けてこの街で肩を寄せ合って生きる人がいるのも事実です。

「あらゆるビジネスシーンでやりにくさを感じてきた末に、この街でやっと成功した人の厳しさと、だからこそ見せる優しさーーアキさん世代はまさにそうだったのかもしれないね。『二丁目でしか生きられない人』という言い方にも、いまでも一定のリアルはあると思う。でも、僕は一般の広告ビジネスでもゲイをほぼオープンにして仕事しながら、上の世代の辛さを味わわずにすんだのはラッキーだった。そんな僕だから、一般社会とこの街をつなぎ、紹介していく、そして僕たち自身を開いていくのが、僕の役割かなと思っている」
「かつてのパレード実行委員の人脈で、この3年、大学での異文化コミュニケーションの講座でゲイとしてスピーカーに行き、学生にいろいろ話したりしてるんです。これも、内と外とをつなぎ、僕ら自身も開いていく仕事だね」

内と外、過去と未来、右と左、ゲイとノンケ、人と人……さまざまなものをつなぎ、開いていくーー15年前のパレード実行委員長のときから変わらない、それがミツオさんのスタイルなのかもしれません。

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Leo LOUNGE TOKYOの名物の一つは、ミツオさんの「みつお飯」。この日のメニューはチキン、ベーコンと新ジャガのフランス田舎風、ニンニクとバジル風味の卵スープ、そして厚切りバタートースト(ご飯がまだ炊けてなかったので笑)。これで500円です! 私はボトルを入れていたので、晩酌したあとこの夕食で、この日は合計2100円。二丁目は安いんです!

※来週の連載はお休みいたします。悪しからずご了承ください。

【お知らせ】
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