第63回 母さん僕は今、人を殺してきたよ。藤野千夜『少年と少女のポルカ』と、初体験の思い出。

 電話を切ってからトシヒコは『ボヘミアン・ラプソディ』を聴いた。何度聴いてもそれははじめて男と寝た男の歌にしか聞こえなかった。母さん僕は今、人を殺してきたよ。トシヒコはまだ男と寝たことがなかった。でもそれは絶対にはじめて男と寝た男の歌だと思った。何度聴いてもそう思った。

(藤野千夜『少年と少女のポルカ』より)
QUEEN『Bohemian Rhapsody』
はじめて男と寝た男の歌、といえば、私は、この歌だ。森田童子『さよならぼくのともだち』。よりによって、である(笑)。
私の初体験は、1978年。17歳だった。日ごとに膨らんでいく男への欲望と、「いや、自分はホモみたいな変態であるはずがない」という気持ちが闘っていた。まっぷたつに引き裂かれた人格で、キラキラとした青春時代など送れるはずもなく、なにかあれば、すぐに手首は切るわ、薬物に走るわ。ろくでもないコドモであった。
あいまいな希望よりは、完璧な絶望を。ついに私は、自分の正体を見届けることにした。男と寝てみることにしたのである。そうすれば、自分が「ホモみたいな変態」であるのかどうか、わかると思ったからだ。
そうとなれば、行動は迅速であった。『薔薇族』で読んで知っていた、若い人が昼から集まるという「談話室 祭」に行くことにした。そこで、誰でもいい。最初に声をかけてきた人と寝てみようと思ったのである。「祭」のあるビルは、2丁目から、靖国通りを隔てたところにあった。建物の前を何度か、行ったり来たり。勇気を奮い起こして、店内へ。日曜日だったせいもあったのか、店内にはまずまずの人がいたように思う。出された飲み物をちびちびと啜っていると、話しかけてきた男がいた。「はじめてですか?」とかなんとか。ええい。ままよ。私は、すべてを成り行きにまかせることにした。
しばらくして店を出て、2丁目のバーに連れて行かれたおぼえがある。その後のことは、まったく記憶にないのが不思議だ。思い出せるのは、恵比寿にあった彼のアパートの部屋。その部屋で、私は、生まれてはじめて男のチンコを口にくわえたのであった。
翌朝。日も差さないような、4畳半一間の薄暗い部屋で、男は、カセットテープ(!)をかけた。流れてきたのが、森田童子の、この曲であった。

森田童子『さよならぼくのともだち』
森田童子を聴くと死にたくなる。そう言われていた歌手である。この曲も、どんよりとして、暗い。初体験を済ませた朝に聴くには、つらい(笑)。
男は、私より4つか5つ、年上であった(もっとも、サバを読んでいた可能性もある)。ホモ雑誌のグラビアに出たことがあると自慢していた。当時の私は、それが、なんだかスゴイことのように思ったが、今なら、ホモ雑誌のグラビアに出るような人間なんて、ろくでもない奴だと、すぐに思ったはずだ(笑)。
初体験の感慨は、まったくといっていいほど無い。めくるめく快感。とろけそうな気持ちよさ。満ち足りたしあわせ。そんなモンは、まったくなかった。もっとも、誰でもいい、と思って寝た相手である。そこまで期待しては、相手にも申し訳ない。男も、初体験だというのに、反応の鈍い私を相手に、苦労しただろう。彼の選曲通りに、私は、二度と彼に会うことはなかった。まさしく「さよならぼくのともだち」である。
男とはじめて寝たことを、もちろん母親に告白することはなかった。けれど、『ボヘミアン・ラプソディ』のように、私は、確かに、“人”を殺したのである。それは、「自分はホモみたいな変態であるはずがない」と信じようとしていた、もう一人の自分であった。完璧な絶望であった。
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さて、冒頭に引用した一文は、藤野千夜『少年と少女のポルカ』から、である。『ボヘミアン・ラプソディ』を聴いて、はじめて男と寝た男の歌だと看破したトシヒコは、男子校に通う15歳だ。しかし、私のように、悩み多きホモではない。
けれどもトシヒコはもう自分がホモだということで悩んではいない。(略)十三歳のとき、自分がホモだということでは悩まないと決めた。それまでは県立の大きな図書館に通ってはさんざん同性愛に関する専門書を読みあさり、そういった本に記された同性愛者の特徴を自分と比較して一喜一憂してもいたのだったが、ある日そのうちの一冊に、
「同性愛者の特徴の一つとして、同性愛関係の書物をたくさん読んでいるということが挙げられます
 という内容の記述を見つけ、それ以来なんだか馬鹿らしくなって悩むことをやめてしまったのだった。真剣な悩みを茶化されたような気がしたし、それにみんな同じことをしているのだったら何も悩む必要はないような気もした。だから十五歳のトシヒコの悩みはと言えば、もっぱら好きな男の子のことに限られている。男を好きなことで悩むのは自分が生まれて来たことを悔いる気持ちにもなって、歩道橋を渡るたびダイブしてしまいそうな衝動を沸き起こらせたものだったが、好きな男の子のことを悩むのはたとえ先行き手痛い破局が待ち構えていようともどこかに希望が残されているぶん仄かな温かさが感じられた。まだ十五歳だ。いつ訪れるとも知れぬ破局に怯えるよりも、希望の温かさに酔いしれて悪いと誰にも言えないだろう。
トシヒコは、ホモであることもあっけらかんと受け止めている。ルサンチマンこてこての悩める“私”を主人公にしていないところが、この小説の新しさである。トシヒコの同級生に、「自分のことを間違った体に生まれた女だと思っている」ヤマダがいる。ヤマダは、所謂、MTFで、女性ホルモンを注射し、男子校にスカートをはいて登校する。
ヤマダは自分が間違っていることをしているとはまったく思っていない。ただ、そんなふうにして学校にいることを「へんな感じ」だとはよく思う。何か嘘みたいな感じ。おい、嘘だろ、そんなやつ学校が放っておくわけねえよ。もし誰かにそう言われたら、やっぱそうだよね、と笑ってしまいそうな気がする。でもいるんだからしょうがない。
ヤマダもまた、闘わない。自分自身とも、学校という社会とも闘わない。「でもいるんだからしょうがないと受け入れているのだ。旧来の青春小説であれば、こうした主人公達の態度は、“あきらめ”と受け取られるだろう。が、斉藤美奈子の『解説』によれば、「でも、仕方がない。『私』のありようをなかばあきらめ、なかば突き放しつつ肯定するところが、この小説の価値だと書いている。今風なのである。
そもそも、私は、悩みもせず、闘いもしないホモは嫌いなのである。悩んでこそ、苦しんでこそのホモだと信じているのである(←古いオカマ!)。だから、昨今の、自己肯定感バリバリの、お気楽なホモ達が大嫌いなのである。当然、この小説に出てくるような主人公たちを許せるはずもない……はずなのだが、それでも、私が、この小説を好きでたまらないのは、『ボヘミアン・ラプソディ』を、はじめて男と寝た男の歌だと書けてしまう著者の藤野千夜だからである。私と同世代の藤野は、おそらく、“あきらめ”ではなく絶望を知っている。ともだちにさよならも告げたし、“人”も殺した。だからこそ、描けたのだと、思うからである。
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藤野千夜『少年と少女のポルカ』(講談社文庫/2000年 発行/ISBN4-06-264851-2)

 

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