第69回 目をえぐり出し、耳を焼き潰した。恋愛の極北を描いた、レズビアンカップルの物語。レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』

 

やたらとハッテンバでチンコを咥えまくる話を書いたり、同性婚には反対するし、シャイニーなお洒落ゲイカップルには恨みつらみを爆発させている、本コラムである。さぞかし、読者の皆さんは、私が、性格のひねくれた、モテないブスなホモだと思っていることだろう。ま、それも、間違いではないが(笑)。
そんな私にだって、かつては、愛し愛され、信頼するに足るベターハーフとの関係性を築こうと考えていた時代だってあるのだ。考えていただけではない。努力もしたのだ。好いた惚れたの麻酔が切れかけた頃には、相手の疑念と不安を晴らすために、真夜中の長電話にもつき合った。二人の関係に翳りが見えたときには、それを払拭するために、ウン万円ものタクシー代を使って、相手の家に乗り込んだりもした。いま思えば、それはそれで青春だったなぁ(笑)。
恋人と一緒に住んだこともある。一緒のベットに寝て、一緒に起きる。二人でご飯を食べて、それぞれが仕事に出かける。確かに、幸せな瞬間はあった。だが、最初は良かったものの、そんな“おままごと”が長続きするわけもない。その後は、互いの自我と美意識とのバトルである。家具や調度の趣味が合わない、とか。ささいな諍いが、二人の関係を埋め尽くした。
そうした、それぞれの領域を許し許されるようにしていく努力こそが、おつきあいであり、恋愛の醍醐味だという人もいる。ごもっともである。赤の他人が、共同生活するのだ。生活どころではない、人生を共に生きていくのだ。ぶつからないわけがないのだ。
私は、数年の努力の末に、結論に達した。「アタシには、無理だわ」という解答であった。持論なのだが、セックスと恋愛は、才能である。才能であるからして、持って生まれた資質が大きく関係する。スポーツや音楽と同じだ。運動神経のない鈍くさいヤツは、いくら頑張ったって超一流選手にはなれない。それ、仕方なくね? 絶対音感を持って生まれた人と、そうじゃない人。努力では埋められないものもあるのである。
ところが、セックスや恋愛といった方面になると、そうはいかない。どうしたわけか、この世の中では、「誰しもセックスをしたがっている」し、「セックスは気持ち良いもの」とか、「セックスは二人の愛の証だ」とか考えられている節がある。「好き→やりたい→気持ち良い」という絶対的な公式が存在する。
はっきり言う。そんなことはない、のである。そう思い込まされているだけであって、生来、セックスの才能に欠けた人間もいる。恋愛の能力に劣った人間もいるのである。そんな人達でさえ、恋愛をしなくてはいけないという強迫観念を与えられ、セックスしたら気持ちよくなれるという幻想を見せつけられている
私も、そうであった。ひとかどの恋愛なんてものを志向していた時期。努力もしたし、苦労もしたが、ちっとも楽しくなんて無かったのである。そもそも、私には、相手に人格を認めてしまうと、その相手とはセックスが出来なくなるという、障害があったのだ。セックスするなら、相手の氏素性も分からない、時には、顔すらも分からないようなハッテンバの暗がりでするセックスが好きだった。そうした場所では、普段は出来ないような、ビールマンスピンにトリプルルッツなんてお手のものという身体能力の高さを発揮出来るのだが、いざ、恋人相手となると、氷上で震える子ウサギの如くであった。
セックスがヘタなことは、罪ではない。恋愛出来ないことは、欠陥ではないのだ。この世の中の95%の人間が当たり前に出来ることも、出来ない人間だっているのである。ま、石の上にも三年。やってみたら、意外と楽しかったし、自分に向いてるんじゃないかと思った。なんて例外もあるが、5%の多くは、無駄な努力と共に人生と精神をすり減らしているのではないか。
才能のない人間は、恋愛をするな、セックスをするな、と言いたいわけではない。皆がプロ野球を目指しても、自分は草野球で、とか。いっそ、ゲートボールでも……。いやいや、スポーツじゃなくて、陶芸だって良いじゃないか。人生には、それぞれの楽しみ方があるのだから。
幸いなことに、ホモの世界には、セックスだけを手軽に行うことの出来る環境も、風潮もある。それで、十分じゃね? 別に、特定のベターハーフじゃなくとも、セックスは楽しめるのだから。無責任なセックスほど、気楽に楽しめるレジャーはないのだし(笑)。
こんなことを言うと、あたかも、私が、真っ当な人間関係を築くことの出来ない破綻者だと、蔑む人も出てくる。大きなお世話である。恋愛なんぞに振り回されていた頃よりも、いまの方が、ずっとずっと安定して、充実した人生を送っている実感がある。ただ、唯一の難点は、年齢制限を設けたハッテンバが増えすぎて、行けるところがますます限られてきたことぐらいか(笑)。
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さて、そんな私であるが、恋愛を根こそぎ否定しているわけではない。自分ではスポーツはしないが、オリンピック中継は楽しむ、みたいなものか。ただし、競技場建設に使われる税金が、私の生活を圧迫しない限りにおいては、だ(笑)。
本だって、ここではあまり紹介してこなかったが、恋愛小説も好きだし、けっこう読んでもいる。そんな中から、これまで読んだものの中から、恋愛の極北を描いた大好きな作品を紹介しよう。しかも、レズ・カップルの話である。
安全のために、私たちはあなたの目をつぶして私の耳の中を焼くことに同意した。
この衝撃的な書き出しで始まるのは、レベッカ・ブラウンの『私たちがやったこと Folie à Deux』である。レベッカ・ブラウンは、1956年、アメリカ生まれ。彼女は、日本では1994年に、末期エイズ患者のホームケア・ワーカーである“私”が、死に向かう彼らの日常を淡々とした筆致で綴った短編集『体の贈り物』が紹介され話題となった作家だ。その後、何篇かの短編が雑誌やアンソロジーで紹介されたが、1冊にまとまった本としては、2002年の本書『私たちがやったこと』が2冊目である。『体の贈り物』が死をテーマに書かれていたとすれば、本書のテーマは、愛である。さまざまな、時には、異様とも思われるような愛の形が、これまた淡々とした筆致で描かれている。全7本の短編集だ。
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レベッカ・ブラウンのポートレート。見事にレズビアンな風貌(笑)。「新潮社」ホームページの著者紹介(https://www.shinchosha.co.jp/writer/55/より。
こうすれば私たちはいつも一緒にいるはずだ。二人ともそれぞれ、相手が持っていないもの、相手が必要としているものを持っているのであり、二人ともそれぞれ、相手に何が必要なのか、相手をどう世話したらいいかが完璧に分かっているのだ。
『私たちがやったこと』には、愛し合い、互いに信頼し合い、依存し合う。二人だけの閉じた、完全な球体の中で暮らしていこうとするひと組の恋人たちが描かれる。二人以外の世界や社会を閉め出してしまうために、画家である“私”は木焼き鏝で耳の中を焼き潰し、ピアニストの“あなた”はスプーンで眼球を抉り出すのであった。
 私たちはキッチンで、腕をのばせば届く距離を置いて向きあって立っている。私はぴかぴか光る銀色のスプーンを二本持っていて、あなたは実家にあった古いおもちゃ箱から二人で見つけた木を焼く鏝(こて)を二本持っている。私たちはそれぞれの道具を顔の高さに持ち上げる。あなたの目は空の色だ。軽い、冷たいスプーンがあなたの頬に当たっている。あなたの手が私の髪をなでる、やわらかにこもったさらさらという音が聞こえる。あなたの両の手のひらが私の頬をさっとこする音が聞こえる、電気の通った木焼き鏝のぶーんといううなりが聞こえる。私は自分の目を開けたまま、まるい冷たいスプーンをあなたの眼窩(がんか)に押しつけ、あなたの顔にまっすぐ直角に押し込む。あなたはまばたきしようとする。私はもう一度スプーンを押し込む。私の頭が石炭のように感じられる。私は何もかもすべてを感じることができる。私はぎゅっと目を閉じる。何もかもがふたたび熱くなる。あなたはあえぎ声を上げる。
翻訳家の柴田元幸は、“私”を女性とし、“あなた”を男性として訳しているが、『訳者あとがき』では、「原文では『私』も『あなた』も男性だか女性だかわからないような書き方になっていると述べている。事実、レベッカ・ブラウンは、自身のことをレズビアンだとカミングアウトしていることから考えるに、この物語は、性別に限定されずに、女同士でも、男同士でも、男女でも、いずれでも愛する“二人”の寓話として読まれるべきなのであろう。敢えて、男女として訳した、訳者の意図が分かりかねる。
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本書の中から、もう一篇、紹介しよう。『アニー』である。これは、純然たるレズ・カップルの話だ。幼い頃からカウガールに憧れていた少女と、本物のカウガールであり、ロデオショウの花形スター アニーとの、すれ違いと関係の破綻の物語だ。“私”は、恋人であるアニーのために、ロデオショウやアニーの自伝本の出版を企画するなど献身的に尽くすのだが、当のアニーは、西部の草原での穏やかな暮らしを望んでいた。しかし、大都会での興業が続き、アニーは人気者となり、そのことが二人の関係に影を落とし始める。
 そのときアニーが私の言葉をさえぎる。いままでずっと、アニーが私の言葉をさえぎったことなんて一度もなかった。彼女は言う。「あんたが言ったんだよ、あの人たちに気に入られるようにしろって。ああやれってあんたが言ったんだよ。あんたも(注/「あんたも」に傍点)そういうあたしが好きだって言ったんだよ」
 彼女は黙り込む。それから言う。「これ、あんたのためにやったんだよ」
『私たちがやったこと』も『アニー』も、二人で向き合っているだけの状態の、楽園のような恋愛関係が、わずかなきっかけから亀裂を生じさせていく悲劇を描いている。せつない、のである。狂おしいほど、せつないのである。
私はすっかり“降りて”しまったが、そんな私が読んでも、せつないのである。これから、これからも恋愛をしたい、しようと思っている人には、おすすめである。この本を読んで、あなたたち二人の愛が、耳を焼き、目を潰すに値するものか、考えてみてもいいだろう。それでもなおかつ、恋愛をしたいと思うなら、どうぞ、お幸せに(笑)。
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レベッカ・ブラウン著『私たちがやったこと』(マガジンハウス/2002年 発行/ISBN4-8387-1362-2)

 

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