能町みね子の喜怒哀楽【哀】

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私は各所でしつこく言っているけれども、テレビのバラエティで、ゲイやトランスジェンダーなどの人を雑にひとくくりにして「オネエ」と呼ぶのが大嫌いです。

「オネエ言葉」という言葉は、おそらく今テレビで使われる「オネエ」よりもはるかに前から使われているし、「誇張された女言葉」という意味でほぼ定義が確立していると思うので許容できる。「オネエっぽい」も、そんな言葉遣いやふるまいをするさま、ということで一応許容範囲。ある人が「私はオネエです」と自称する場合も、それはその人の勝手だし、別にいい。ただ、非常に曖昧なくくりで誰でも「オネエ」に入れてしまうのが嫌いなのです。

「オカマ」は差別的ということであまり使われなくなったのになぜ「オネエ」は許されているのかと言ったら、単に新しい言葉だから「差別的」の印がまだ押されていないというだけです。今テレビで使われる「オネエ」はかつての「オカマ」と定義がほとんど変わらないというのに。

今でこそ多少いろんなタイプが増えてきたものの、「オカマ/オネエ」と呼ばれる人は基本的に戯画化されていて、異端の存在。かつて物語や漫画のなかに登場した架空のオカマ/オネエはなおさらそんな感じでした。異形の者であり、テンションがやけに高く、空気を読まず、厄介者扱いされる一方でなぜか他人より人生経験が豊富だとして慕われる。しかし、決して愛されない。つまり、その場の人間関係の中で恋愛の円環から完全に弾かれていて、孤独。恋愛沙汰といえば片想いをして嗤われこっぴどくふられるというのがせいぜいで、男性から恋愛感情を抱かれることなど皆無、というか、初めから選択肢に入らない。だからこそ、どんなひどい目にあっても落ち込まずにおどけており、「異端」を自ら誇張して演じる。これがかねてからのオカマ/オネエの役割で、今のテレビで求められるものもおそらくほとんど変わらない。

テレビなどで見られるこんな役割のオカマ/オネエから私が受ける印象は、「哀しさ」でした。健気におどけてふるまえばふるまうほど、本質にある哀しいものが浮き上がって見えてしまう。異端であることがどんどん浮き彫りになっていく。

これは私の先入観や偏見によるところが大きいとは思う。本人にはそんなつもりは全くないかもしれないし、心底から喜んでその役割を果たしている場合もあるかもしれない。でも、私自身は絶対そんなふうにおどけられない。そんなことしたら、哀しみが人の数倍浮かび上がるに違いない。

だから、私は性別を変える経緯でも、変えてからも、絶対にその方向に引っぱられないよう、元来の無気力さ、平然ぶり、冷静さを保ったままでいようと意識的に思っていました。人は誰でもどこかしら哀しい部分はあるとは思うけれど、過剰な道化や感動の押しつけによってそれを埋めるような行為が義務化してしまうのは本当に嫌なのだ。私は、哀しいときはストレートに純粋に哀しいって言いたいです。

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 2016/02/24 11:30    Comment  連載   能町みね子の喜怒哀楽              
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